”プレゼンス”に満ちたセッションや講座を受けると、その在り方に憧れる。

 

私はあまりセッションを受けないのでサンプル数が少ないけれど、今までプレゼンスを感じたのは、海外のNVC(非暴力コミュニケーション)ティーチャーだけだ。

 

もう10年近く前になるが、その講師のセミナーを受講した夜、友人と食事をした際になぜか感謝された。話している内容はいつもと変わらなかったのに、「あなたが本当にわたしのことを思ってくれていることがわかる」と言っていた。そしてそういう友人のこともなんだかわかる、という位には、自分が普段とはちがっていることを自覚していた。

 

私はその時、プレゼンスでいようなどとは意図せず、日中に分かち合った「今」というエネルギーのスープの中にまだ漂っていた。それは徐々に薄れ、日常に戻っていった。あの感覚を私は今でも覚えている。

 

プレゼンスを言葉で語ることはできないけれど、そこには”柔和さ”がある。不安や心配などはうっちゃって、その空間にいるだけで自分の磁気フィールドの乱れが瞬時に整うのがわかる。

 

DoとBeのちがいについてスピの人たち(私含む)はよく語るが、実際に体現している人に触れないと、Beがなんなのかを理解することは不可能だとおもう。知識や経験、方法論、有用な意見、楽しませるジョーク、場を盛り上げるといったことはDoのテクニックだ。

 

わたしはプレゼンスで空間をつくれる人に憧れる。

 

けれど、本当にそうなりたいか?と自分に問いかけると「否」という自分もいる。先ほど少し乱暴にBeの在り方を”柔和さ”と表現したが、それを「退屈」だとジャッジする私がわたしの中にいるのだ。

 

必須かどうかはわからないが、Beを体現している人の話し方には独特のゆったりしたリズムがある。沈黙の奥行きがある。私の中にはもっと独自のリズムやテンポよく話したいという思いがある。

 

私のエゴはもっと自由にやらせろよ、パーっといこうぜと言う。果たしてどちらが本当の自由かという疑問は残るが、正直、私にはまだプレゼンスのみで生きることへの覚悟ができていないのだろう。抵抗を眺める。

 

それでも、自分がプレゼンスを生きることを目指して歩いていることは自覚しているし、セッションや講座の最中、時折その状態になることもある。焦る必要がないことも、もうわかっている。

 

 

 

3月にNVCについて書いたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回積読していた「わかりあえないを超える」を読んだら、わたしの中のNVCを日常で実践したいという欲望がむくむくしてきました。原題は"Speak Peace"。

 

 

考え方やトレーナーのプレゼンスに魅了されながらも、NVCを日常に落とし込めていなかったこと(やっていないこと)は、シンプルにNVCで受けるだろう恩恵よりも、その他のニーズ(楽しさとか気楽さ)が上回っていたから、ということもわかった。

 

 

人は選択するとき、必ず何らかのニーズを満たすためにやっている。ニーズが満たされていないときは、その裏に「決めつけ、ジャッジ」があると。

 

 

決めつけをするときの言葉「やらなくちゃいけない」「〜べきだ」というのはとても暴力的だとマーシャルは言います。この暴力的な言葉を普段自分に言っているとしたら、苦しくなるのは必然だとも。

 

 

 

わたしはずっと昔のことを思い出した。

 

その人はそのとき、”身体的な養い”のニーズである、住まい・食べもの・休息・安心・安全などをいちばんに必要としていた。

 

けれどわたしは、それ以上に大切なものがあるはずだ、という決めつけをしてしまった。気づいていても、相手のニーズを尊重してあげられなかった。

 

わたしにはわたしのニーズがあったが、それは秘密。相手のひどいと思ったふるまいを許せないという気持ちとともに、とても暴力的な風がわたしの心に吹き荒れて、それをあの人に送っていた。

 

 

 

NVCでは、謝罪ではなく”嘆き”を推奨している。

 

 

NVCでは、嘆きと謝罪には大きな違いがあると捉えています。謝罪は基本的に、わたしたちが使う暴力的な言語の一部です。謝罪は自分の悪さをほのめかします。「自分は責められて当然だ」「自分は悔い改めるべきだ」「あんなことをした自分はひどい人間だ」といった具合に。

 

そして、自分をおぞましい人間だと認めて、十分に後悔したときに、あなたは許されるのです。「ごめんなさい」はそういうゲームの一部です。自分を十分に憎んだなら、許されるという訳です。

 

それとは対照的に、真の癒しが起こるのは、自分がひどい人間だと同意するゲームによってではなく、自分の内面に目を向けて、自分のとった行動によって満たされなかったニーズが見えたときなのです。

 

そしてニーズにつながったとき、これまでとは違う種類の苦しみを感じるでしょう。それは自然な苦しみです。自分自身に対する憎しみでもなく、罪悪感でもなく、学びと癒しをもたらす苦しみです。

 

「わかりあえない」を超える

 

 

 

わたしは、あのとき満たされなかった自分の秘密のニーズにつながった。嘆きと癒されていく感覚を、たしかに感じた。胸がいっぱいで、涙ぐむほどに。

 

 

失敗することはたくさんあるだろうけど、自分の願いを相手に聞いてもらうことを出発点にはもうしない。互いのニーズを満たすためにどうすればいいのかがはじまりだ。

 

 

 

自分の内側に目を向けて、その行動をとってしまったときのことを振り返ってみると、たいていは、こんな言葉が浮かんできます。「しかたがなかったんだ。ほかに選択肢はなかった」。

 

そんなことは絶対にありえません!わたしたちはいつだって選択肢を持っています。選択もせずに行動を起こすことはないのです。わたしたちは、ニーズを満たすために、行動を選んでいるのです。

 

NVCが重視するのは、あらゆる瞬間に選択肢が存在すると認識することです。どんなときにも、人は自分の選択で行動しているのです。何の選択もなしに起こす行動など、何ひとつありません。さらに言うなれば、人のあらゆる選択は、ニーズを満たすためのものです。

 

「わかりあえない」を超える

 

 

 

 

 

鏡としての他者

CBD Tarot de Marseille by Dr. Yoav Ben-Dov, www.cbdtarot.com

 

 

 

 

 

 

 

 

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