人がモノに触れるとき、
本当はモノに触れているのではなく
”意味”に触れている。
わたしはこれを書いている今
「PC」に触れているのではなく、
「世界に自分を開いてコミュニケーションする」
ことに触れている。
そう考えると、
ブログを書くことの意味が変わってくる。
『人は変わることができる』
ということを受け入れている分しか
わたしたちは変われない。
朝早く起きてブログを書きたいが
起きられない。
恋がしたいけれど
したいなと思うだけで何も変わらない。
仕事で能力を発揮したいのに
何がやりたいことなのか自分でもわからない。
ポジティブで明るく落ち込まない
自分になりたい。
モノだけでなく
出来事や行動もすべて意味に触れている。
この意味づけが変わることが変化だ。
単なる状況の変化は、本当の変化ではない。
禁煙に関する本を読んでその日から
タバコを一切吸わなくなった友人がいる。
止めることに禁断症状も苦しい思いも
なかったそうだ。
当時、会社員という働き方が
自分に合わないことを知りつつ
何も動けなかったわたしに、
「人は案外簡単に変われるんだ」
という事例を見せてくれた。
わたしの枠をひとつ、壊してくれた。
会社を辞めた後の自分を
イメージした。
イメージが現状のままでいることの
メリットを上回ったときに、行動が変わった。
すぐに会社を辞めたのではなく、
霊性の探求がはじまった。
こころを写す鏡である
タロットに出会った。
ずるい自分、
醜い自分、
純粋な自分、
あらゆる角度から自分に向き合った。
わたしはわたしをモノとして見ることを
やめて、意味付けを探しだした。
わたしにとって
「仕事」とは?
「働く」とは?
「お金」とは?
「起業する」とは?
「自由」とは?
「人生」とは?
「住みたい場所」は?
「やりたくないこと」は?
「どんな人と出会いたい」?
「誰を大切にしたい」?
「1年後、最悪のシナリオは」?
「1年後、最善のシナリオは」?
「そのために今日できることは」?
「理想の世界」とは?
「理想の世界が実現できないとしたら何が原因」?
答えを見つけることよりも、
『問い』を立てることそのものが
思考停止からわたしを連れ出した。
「人は変わることができる」
ということを受け入れている分しか変われない。
わたしは今も自分にもどる旅の途中で、
一生かけても終わらない気がする。
そのことにたまにめげそうになるので
めげないことを毎日のように自分に宣誓する。
今より苦しかったあの頃、
自分にアドバイスするとしたら
「変わらなければならない」
という呪縛を解いて、
そう思っている自分を丸ごとゆるして
ほしいと言いたい。
自分や周りへの
批判や不満といった
欲しくないものを
握りしめるのではなく、
力を抜いて、
ありのままの自分を抱きしめてほしい。