鬼滅の刃の人気の秘密についての評論をたくさん読んでいます。映画がとってもよかったので(号泣)
最初はニュースサイトによる様々な分野の方のものを。その後は心理学や占星学の観点からみた作品の評なんかも読んでいます。
ここでは作品自体のわたしの考えではなく、評論を読んで感じたことを書きたいとおもいます。それは『フレーム』をもっているがゆえの評論のあやうさ。※ネタバレなし
わたしが読んだ心理学の方は、フロイトの発達段階(口唇期や児童期、思春期など)のフレームをつかって考察していたけれど、この枠にあてはめることは人間の魂をどう扱うかということをないがしろにしがちだなって感じた。
その評論の中では鬼=欲望と単純化もされていたけれど、欲望にもレベルがある。お腹がすいて人のものを盗むことと、人間を食べることはちがうだろう。人を愛することと殺して食べること、どちらがより本能に近いのだろう?
肉体は生まれたときに誕生するけれど、魂は生まれたり死んだりはしない。記憶はなくても、受肉する前から存在しているのが魂だ。(なにを”魂”と定義するかにもよるけれど)
この作品を魂年齢を考慮することなく、フロイトの発達段階だけで説明することは、すごく小さな枠の中で登場人物をとらえることになるなって感じた。
占星学の視点から作者のホロスコープを出して作品を読み解く、という記事も読んだ。「書いた人がどう作品を受けとめたか」と「エレメントやサイン、惑星のフレームへの縛り」みたいなものがあいまって、わたしはこの記事は共感できなかったなーーーー。(書いた人のことは好きです)
たとえばこの作品には、”楽観的なシーンやギャグがほとんどない”ことが、”作者のホロスコープに火のエレメントがひとつもない”ことと結びつけて書かれていたのだけど、わたしは「結構あるよね…」とおもった。シリアスなシーンと楽観的なシーンのバランスはわたしにはちょうどよかったです。
職業柄、サインやエレメントありきで書くことは当然かもしれないけど、個人の信念体系に沿った感想をフレームの中で再解釈することは、そこからはみ出している(フレームに収まりきれなかった)多くの人の心を動かしている部分が、切り捨てられているように感じてしまった。
体系化され、認知されたフレームを採用して作品を評価することは、何かが異なるね。もっともらしく読めちゃうからかな。そこらへんのあやうさを感じました。個人の感想としてならなんでもありだ。
以下は、これまでに読んだ中でわたしがいちばん好きな評論。ネタバレありなので映画未見の方は観たあとに読むがよいです。
(11/22追記)