調査報告書の感想その4(2024/6/28)
みなさん、ごきげんよう。
雨が降っておりますね。
早いもので2024年も半分が終わります。
さて、今回も前回の記事でも触れていた「大阪府泉南市・中1いじめ自殺」の調査報告についてです。
今回も、こちらについて、わたくしの見解を簡単に述べたいと思います。
依頼を受けた事案ではないため、詳細な分析ではない事はご了承ください。
なので、ここから先は「さとう社会・心理研究所」の視点になります。
今回も専門的な観点からの詳細な説明は有料メルマガでお話しすると思います。
前記事でもご紹介のマイクラ配信でもうろ覚えながらお話ししております。
配信やアーカイブにコメントも付いており、関心を持っていただけることを嬉しく思っております。
相談等をご検討の方には参考にして頂ければと思います。
配信しているのは同一の別人と言う体でやっております。
先日の配信ではご質問に対し一般的な回答をいたしました。
ただ、研究所の宣伝などは行っておらず、ご相談も行っておりません。
ご相談希望の方、研究所にご用の方はメールにてお願いいたします。
今回は調査報告書16頁、令和3年度4月分からです。
翔さんは中学に進学し、入学式には参加した後も自発的には登校できていなかった。
教員Sなどの働きかけで登校はするものの授業には参加できない状態が続いていた。
イモリの世話を熱心にしていたとの事で、これは良かったのではないかと。
4月の担任との話でも母は小学校での事を述べており、
令和2年5月の校長の暴言からも、当然ながら余程悔しかったのでしょう。
環境が変わった程度で解消できる高ストレス反応ではなかった事がうかがえます。
5月に母は指導主事に小学校へのペナルティと翔さんへの学習サポートを求めます。
この「小学校へのペナルティ」とは、一般的には要求が高すぎるもので、高ストレス状態の産物と捉えられると思います。
ただ、有料メルマガとマイクラ配信でもお話しした通り、
これは令和2年5月の校長の妄想虚言の意味を知るならば、当然の要求と言えるでしょう。
兄弟げんかやQUの記述は、翔さんが精神的に未だ極めて不安定な状態である事がうかがえ、
特に、対人関係の評価の低さや担任の認識との乖離は学校に通っている場合ではない。
命を優先するのなら、医療や心理面での介入の必要を求めるべきであった。
6月に学校は全校生徒を対象にいじめに関するアンケートを取ったものの、
翔さんからは個別指導を受けている事を理由に筆記によるアンケートを取る事がなかった。
担当教員は個別指導における聞き取りの中でいじめなどの存在が無い事を確認し、
他の生徒の回答からもいじめの記載は確認できなかったとある。
恐らくは、このアンケートも翔さんの状態を軽視した原因となったと思われる。
まず、翔さんにとって問題なのは小学校での出来事のため、中学での調査に意味はない。
しかしながら、そもそも、調査としてのアンケートの取り方に問題がある。
翔さんから記述式で調査を行っていたら、小学校に関する記述を得ることができていたかも知れない。
仮に、小学校に関する記述を得られたとして中学校にできる事はなかったであろうが、
それでも、翔さんの憎悪や苦しみを生きた証として残すことはできたのではないかとは思う。
中学校が小学校の卒業証書を翔さんに授与した。
これについて、母親は教育委員会へ小学校の問題を終わらせる意図であるのかをメールをしている。
教育委員会からの回答に対し、関わった全ての教員から謝罪文を提出させるよう求めた。
これに対し、小学校側は教育委員会と協議し、自分たちこそ被害者であると捉えており、
令和2年5月の暴言がモラハラ加害者特有のスッキリして忘れてしまっているのが分かる。
スクールソーシャルワーカーサポーターという未熟者が湧いて出てきている。
母の高ストレス状態だけは理解できていたものの、目の前にいる一方当事者の言葉を鵜呑みにしてしまっている。
また、ここにある「先生が疲弊するだけなのでまともに対応してはいけない」という趣旨の言葉がモンスターペアレントと言う認識に強く影響したと考えている。
また「一人一人の先生に謝罪文を書かせてもこの問題は解決しない」と発言したとあり、学校と教育委員会の対応に墨付きを与えたと思われる。
なお、母と翔さんにとって、小学校に謝罪文を書かせることには重要な意味があるという事は、先週のマイクラ配信から当然に導かれる。
社会問題に於いては金だけ目当てに中途半端な専門家や支援者が介入して問題が複雑化する場合が多々見られるが、
この問題もスクールソーシャルワーカーサポーターが「加害者の支持者」「暴力の支持者」として機能した可能性がある。
なお、わたくしが、この感想を「調査報告の事実認定」に忠実に行っている理由でもある。
この点の説明も、科学者としてプロのコンサルタントとしての姿勢の話として先週のマイクラ配信でお伝えしている。
8月には大阪法務局人権擁護部に小学校の出来事について、大阪府に対しては教育委員会が家族を嘲笑っている旨のメールを送っている。
「何の解決もなく、困っている時だけ聞くのは悪質」という言葉は、一般の行政相談でも見られるもので、わたくし自身、そういうご相談を受けていた事がある。
母は指導課長との電話で小学校が謝罪文を拒否した以上、教育委員会として処分すべきだと訴えている。
これに対し、教育委員会は「訓告を行っている」という旨と、何度も謝罪をして誠意を示しており、これ以上の対応はできないとこれを拒否した。
一見すると、母親の要求は過剰で教育委員会の対応は毅然としたものと思われるであろうが、
先週のマイクラ配信での説明をお聴きくださった方にとっては当然の要求である事はご理解いただけると考えている。
ただし、教育委員会が令和2年5月の校長の発言にどこまで関わっているかは記載がないため不明であり、
この点が先の未熟者のミスリードなど加害者側の認識の齟齬に繋がっていた可能性は否定できない。
しかしながら、この教育委員会の対応と母が大阪府や法務局にメールを送るようになった時期が重なる事には重要な意味がある。
この辺りの詳細は有料メルマガにてお話しする予定。
9月に指導主事は母に電話したところ、翔さんが少年院帰りと言われており、この事は担任に伝えているが、誰に言われているのかは翔さんが言わないので分からないとの事。
翔さんはNPOに相談したことで市議会議員に話が伝わり、教育部長と参与が市議会議員に話に言ったとの事。
「市議会議員には部長級が話に行くのね」というのが感想
母が度々メールを送っていたからか、教育委員会は大阪府教育委員会に緊急支援チーム派遣の検討を要請したとの事だが、
難の支援をしてもらうつもりだったのかは不明。
指導主事からの電話に対し、母は翔さんが兄と同じクラスの生徒から叩かれた。だが、誰に叩かれたのかは言わないとの事。
兄と翔さんに対し、まわりの子の印象が変わる様な取り組みをして欲しいと話し、具体的な対応を求めている。
10月には、大阪府と泉南市の教育委員会がケース会議を行い、教員Sが母に電話し、同日家庭訪問。
岸和田子ども家庭センターに相談に行くことを勧めた所、母は大事にしたくないと言って断ったとある。
この辺りの記載は「支援を断る」という意味で社会問題の当事者に多々見られる傾向であり、いじめ等でも見られる傾向である。
特に、「被害者がカウンセリングを受ける」という事への拒否感は明らかで、「加害者が変わる事」に拘り、事態が膠着し、加害者側に有利に事案が進む事になる場合もあった。
しかしながら、カウンセリングは罰や矯正の類ではなく、ただのカウンセリングに過ぎない事は知っておいていただきたい。
ここでカウンセリングを例に出したのは、感想その1の時点で「翔さんと母はカウンセリングを高ストレス状態にあり受けた方が良い」と述べていたからである。
それは別として、記載の通りだと、母がこども家庭センターへの相談を拒んだことは悪手である。
しかしながら、児童相談所に相談する事への不安があった事は理解できる。
児童相談所問題などを知れば、教育委員会が母の状態を伝え、相談を口実に翔さんと兄を一時保護の名目で誘拐、殺害する算段を付けていたと考えても不思議ではない。
そのため、カウンセリングをお勧めした記述では、「泉南市外で教育委員会と無関係な人」と述べていた。
11月、教員Sが家庭訪問を行い、翔さんから少年院帰りなどと言われる事について、どうして小学校に通えなかったのかについて、手紙に基づいて1年生の生徒に伝えて欲しいと要望し、教員Sは持ち帰った。
その後、教頭と教員Sが家庭訪問し、管理職と教育委員会と協議した結果、要望を拒絶する旨を伝え、母は今後学校からの電話には出ないと伝え、翔さんもこの日以降、令和4年2月まで登校しなかった。
指導主事と母が電話で話をし、阪南市への中学への転校を希望を伝えた。
12月、指導主事は母に電話し、原則として泉南市の中学校に通うべきである事、中学校の校長から「もう少し学校に来てもらえるよう頑張りたい」と意向を受けていると伝え、転校の要望を拒絶した。
1月に指導主事は教育支援センターへの通室を勧めたが、母はこれを拒絶している。
母は翔さんが興味を示さないだろうと答えているが、市外への転校への対案として教育委員会の施設を勧められても
そもそも、ここまで丁寧に記述してきたのでお気付きであろうが、教育委員会は翔さんや母の要望をすべて拒絶しており、この提案を受諾することは隷従の受容を意味する。
そのため、心理的反応としてこれを拒絶するのは当然の事であるが、自分たちこそ被害者であると思い込んでいる加害者には理解できる訳がない。
「この頃、当該児童は叔母に対して、「友だちは仕方がないとしても、自分を助けてくれるおとながいない、先生に訴えても聞いてくれない、助けてくれる存在がいない。」と話した。」とあり、翔さんが社会的に孤立し、教育委員会や学校の対応に深く失望していた事が分かる。
なお、それに対し、教育委員会と学校がしたのは被害者面で「学校に来い」と壊れた蓄音機の様にほざき続けただけである。
念仏なら坊主が唱えていれば良い。
2月に翔さんは教員Tの家庭訪問に応じ、学校に行き給食を食べ、教員Sと会話し、翌日も学校に来ると発言したが、その後は一度も登校しなかった。
その後、教員Tは家庭訪問した時、翔さんから来ないで欲しいと強く言われ、その後は翔さんが亡くなるまで教員は誰も家庭訪問をせず、翔さんと逢う事はなかったとある。
この記述を見てお気付きの方もいらっしゃるだろうが、恐らく、翔さんはこの時には決めていたのだろうと思われる。
事実認定を見る限り、翔さんが希死念慮を訴えたという記述がなく、
翔さん自身は最期まで生きる事を諦めてはいなかったと考えている。
ただ、わたくしは自殺した方のご遺族の話をうかがった事があり、どちらかと言えば、翔さんのケースはそれに近い。
そもそも、希死念慮を訴えたり、自殺未遂をする方は死への抵抗として行っている事の方が多く、
もちろん、軽く扱う事はないが、元気に振る舞ったり何も言わない方に比べれば安心できるというのが実際である。
だから、最後の力で学校に行き、給食を食べ、教員と会話し、学校での思い出を作ろうとしたのだろう。
翌日も学校に行くと言った言葉には嘘はなかったかも知れない。
そもそも、中学での記述を見るに、小学校以上の出来事はなく、翔さんを理解せず被害者面で苦しめていたのは教育委員会である。
ただ、もう学校と関わる力が残っていなかった。だから、行くことができなかったのではないかと思われる。
教員Tを強く拒絶したのも、誰かに恨みがあったからではなく、
これ以上、誰も恨みたくなかったからではないかと考えている。
言い替えるなら、それだけ最後の登校は楽しかったのではないか、と言う事だ。
楽しかったからこそ、その思い出を胸に孤独に生きる事を選んだ。
ではなく、楽しかったからこそ、その思い出を胸に死にたかった、という事なのだと思われる。
もちろん、翔さんが死を覚悟して意識的にそうした、という話ではなく、むしろ死への抵抗としてそうした、という話である。
死を美化するつもりは毛頭ないため記述に矛盾があるのはお許しください。
3月の記述は簡潔に述べる。
教育委員会は以前に母が相談していた国会議員の秘書と協議し転校を進める方針となり、ただし、自宅から近い泉南市内の中学校を想定していた。
それは母を通じ翔さんにも伝えられた。
24頁中段が翔さんに関するの最期の記述となる。
ある母との会話、兄が高校受験に合格し翔さんはこれを慶んでいた。
その後、家族で昼食を摂りに行くことになったが翔さんは嫌がっている。
母の説得で一緒に昼食に行き、6月発売のゲームソフトを買ってもらう話をしていた。
このため、翔さんは12月の誕生日プレゼントをもらわず延期しており、一般的には自殺をするとは思えないであろう。
その後、翔さんは「遠い所に行く」言って旅立った。
簡単ながら、令和3年度の指摘となります。
これだけで5000文字になっておりますね。
まとまりが悪いですが、翔さんが孤独に戦った苦しみの記録なのでご理解ください。
経緯については28頁までありますので、ここから先は別稿、
有料メルマガやマイクラ配信などでお話しできればと考えております。
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では、今回もこの辺で。
さとう院さとう(さとう社会研究所・さとう心理コンサルティング)