作られる病気(2025/9/4) | さとう社会問題研究所・心理コンサルティングのブログ

さとう社会問題研究所・心理コンサルティングのブログ

あらゆる社会での対人関係の問題は心の問題の原因にもなります。
法律や政策により苦しめられている方たちもいます。


さとう社会問題研究所では、社会問題を始め、
クライアントの抱える様々な問題解決のため、助言を続けています。

作られる病気(2025/9/25)

 

非加熱血液製剤など医学とは極めて政治的なものである事を忘れてはならない

 

片親阻害症候群など、裁判所にとって都合悪い病気は否定するが、

 

国が犯罪者を生み出すために作り出された病気も存在している

 

揺さぶられっ子症候群は、その中でたまたま否定された疾患であると考えるべき

 

日本の裁判は、推定無罪を無視し、人質司法と呼ばれる長期間の拘束の果てに行われるものであるという事。

 

その人質司法の恩恵は報道機関と社会の好奇心が享受している

 

我々は、これらの事を踏まえた上で、医学にも司法にも報道にも疑いを持って臨まなければ、

 

わたくしが最近指摘している「デジタルファシズム、デジタルソーシャリズム」の更なる拡大を許すことになります

 

 

多くの冤罪を生んだ「揺さぶられっ子症候群」、正義を掲げる検察やメディアに欠けている「人は間違える」という前提』(JPPRESS、2025年9月25日)

 日本の刑事裁判の有罪率は「99.8%」。ひとたび起訴されると、裁判で有罪となる確率は99.8%だということだ。この極めて高い有罪率のなかで、「逆転無罪」が続出した事件がある。「揺さぶられっ子症候群(Shaken Baby Syndrome/通称:SBS)」である。

 2010年代、乳幼児を強く揺さぶって「虐待」したとして親などが逮捕・起訴され、センセーショナルに報道される事件が相次いだ。逮捕されると容疑者として実名を晒され、長きにわたる勾留を余儀なくされる。しかし、弁護士や研究者らによって「SBS検証プロジェクト」が立ち上がり、裁判が始まると一転、無罪判決が相次ぐ*注。

※注:2018年以降、「SBS検証プロジェクト」が関与した裁判での無罪判決は13人(うち2人は公判中)。

 なぜ多くの冤罪が生まれたのか──。

 この事件を8年間取材してきた関西テレビ・上田大輔記者が監督を務めた映画『揺さぶられる正義』が公開された。「虐待をなくす正義」と「冤罪をなくす正義」のぶつかり合い、引き裂かれた家族の苦悩、“犯人”のレッテルを貼るメディアの責任……。映画は日本の刑事司法とメディアの在り方を問うと同時に、誰の身にも起きうる冤罪とは何かを描く。

 若き日に刑事弁護人に憧れ司法試験に合格するも、挫折して企業内弁護士から記者へとたどり着いたという上田監督。初となる映画作品の公開を機に話を聞いた。

大阪で多発した冤罪の背景に「児童虐待」への熱心な土壌

 

──2010年代から日本でSBS事件による逮捕・起訴が急増しました。中でも大阪で多発しています。まず、背景を教えてください。

上田大輔氏(以下敬称略) SBSとは、赤ちゃんの上半身を激しく揺さぶることで頭部に強い回転性の外力が加わり、脳の中などに損傷が生じる症候群です。

 これは、1970年代のアメリカでは、目立った外傷がないにもかかわらず乳幼児に硬膜下血腫が見られた場合の「仮説」だったのですが、90年代には、いわゆる3つの徴候(硬膜下血腫・眼底出血・脳浮腫)が見つかれば、強い揺さぶりが原因である可能性が高いと診断されるようになりました。この理論が日本に輸入されて2010年代からマニュアル化され、急激に広がっていったという歴史があります。

 ではなぜ大阪を中心に増えたのかといえば、これは統計などがあるわけではないので私見になりますが、大阪には児童虐待に熱心な土壌があるんです。

 2004年に岸和田の中学生虐待事件、2010年に二児置き去り死事件が起こっています。こうした悲惨な虐待死事件を経て、児童相談所、捜査機関、医師らが連携して、児童虐待防止に取り組んできました。

 SBSの場合、赤ちゃんの頭蓋内に出血が見つかると大きな病院に転院させるのですが、そこに児童虐待に詳しいとされる熱心な小児科医がいて、一定の症状でSBSの可能性が高いと診断する。すると児童相談所と大阪府警にすぐに通報がいくシステムが出来上がっていた。そうした連携がいち早く確立されたのが大阪だった、という背景があると思います。

 多機関が連携するのはいいことなのですが、SBSの一連の事件は、一つのパターンが出来上がるとすべてをそのパターンに当てはめて、突っ走ってしまう恐ろしさが表出した事件だったと思います。

──SBSの揺さぶりの基準は「1秒間に3往復」で、かなりの力が必要とされると感じました。

上田 当時、私自身も赤ちゃんを育てていたので、そこまで激しい揺さぶりをする親がそんなにいるのだろうかと違和感を覚え、取材を始めました。

日本の刑事司法の実態「有罪推定、人質司法、冤罪の検証なし」

 

──映画では、SBSによる虐待を疑われて逮捕・起訴された後、無罪になった4つの事件を中心に描かれています。その一つ、生後2カ月の女児が死亡して小柄な祖母が疑われた事件では、動機もないし、家族の誰も疑っていないのに、3徴候が見られるというだけで一審では有罪判決。二審で弁護側が病死の可能性を示したことで逆転無罪となりましたが、孫を亡くした上に逮捕・起訴され勾留された苦しみは、想像を絶すると思いました。この映画では刑事司法の問題がさまざまに問われていますが、どういった点が問題でしょうか。

上田 一つは日本の司法が「有罪推定」であることです。無罪推定(=疑わしきは罰せず)が原則というものの、実際は「有罪推定」の国だと、私は言い切るようにしています。

 有罪推定とは、言い方を変えると、人権の保障よりも秩序の維持を優先しているのではないかということです。多少、人権が後退しても疑わしい人は身柄を拘束しておけば、今まで通り社会がまわっていくだろうという秩序維持を優先する考えが、多くの裁判官にあるのではと思っています。

 例えば、否認したり黙秘したりしていると勾留が長引く、非人道的な「人質司法」が続いているのも、「犯人」を釈放して証拠を隠したり、逃げたりしたときに裁判所の責任が問われかねないと裁判官は考えてしまうのだと思います。この発想も結局は「有罪推定」と言えるのではないかと思うんです。

──別の事件で二審で無罪になった今西貴大さんは、5年以上勾留されていました。この時間は何をもってしても返ってきません。

上田 今西事件では検察は上告しています。最初の起訴の正しさを何としても守ろうとする意識が検察はものすごく強い。これは組織の病理だと思います。大川原化工機事件で検察が起訴を取り消したのは結局は事件をねつ造していたからで、例外中の例外中の例外くらい、検察は起訴取り消しに後ろ向きです。

──冤罪が起きても、原因を検証する仕組みがないことは大きな問題であり、冤罪が繰り返される一因になっていると感じます。

上田 非常に問題だと思います。大川原化工機の冤罪事件で検察は謝罪し、検証報告をしましたが全くもって不十分だし、袴田さんの冤罪事件では、検察庁トップの検事総長が「到底承服できない」などという声明を出しています。

 検察組織のそうした異常性をメディアがもっと追及し、国会に第三者の検証委員会を設けるなどの動きがあってしかるべきですが、それができていない責任を感じます。検察を甘やかしてきたのはメディアなのではないかと思っています。

メディアの責任、「逮捕報道中心主義」に向き合う

 

──映画には上田監督も登場し、自らにも刃を向けます。つまり、メディアの在り方を問うています。例えばメディアは「逮捕報道中心主義」だと。

上田 私が勝手に作った言葉ですが、逮捕時は大きく報じるのに、裁判報道の取り扱いは小さい。映画では犯人と疑われ逮捕され、マスコミにもみくちゃにされた方や家族との対話を重ねるにあたり、記者として自分たちがやってきたことに向き合わざるを得ませんでした。

──「一回、こいつ黒なんやなって思われたら、白に塗り替えるのは無理やと思う」という今西さんの言葉は重いです。そんな中でも取材に応じた今西さんには、上田さんへの一定の信頼があったと想像します。この映画のみならず、取材相手との信頼関係はどのように築かれていますか。

上田 偉そうに語れる秘訣やコツは何もないのですが、自分はこういう理由で記者になりこういう取材をしていると、自分自身の話をするようにしていました。

 今回の映画では、逮捕報道でメディア不信になられている方々に話を聞きにいったので、みなさん「メディアが来た」と感じられるわけです。もちろん私はメディアの人間ではあるのですが、その前に一人の人間でもあり、こういう経緯で記者になり、こういう問題意識を持っているから、最初の報道と異なる角度で話を聞きたいんですということを、何度も伝えるようにしていました。

──『揺さぶられる正義』では、検察、弁護士、メディアとそれぞれの立場の正義がぶつかり合い、せめぎ合いますが、裁判で大きな役割を果たす「専門家」の正義とは何かも深く考えさせられます。ある小児科医の「低い確率で冤罪になったとしても、虐待を見逃したくない」という趣旨の言葉には考え込みました。

上田 すごい発言だなと思うとともに、本音なのだろうなとも思いました。そして、子供の命を守るためには少々の冤罪は仕方ないというのは……、世の中の本音ではないかとも思っています。

 児童虐待事件で冤罪の可能性を問う難しさがここにあるのですが、ただ、子供を守るために掲げた正義が、結果として何を生み出しているか。本当に子供のためになっているのか。例えば傷害罪で逮捕され一審で無罪になった赤阪友昭さんは、長い間、家族との接触を禁止されてきました。虐待とされたことで、子供の先天性の疾患も見逃されました。そうした現実は彼らの正義と見合っているのか。映画を見て考えていただけたらと思います。

──どんな正義を掲げたとしても「人間は誰しも間違うもの」、その前提に立たなければいけないと強く感じました。

上田 映画で伝えたかったことの一つです。もちろん間違えるのは検察や専門家だけでなく、メディアも同じです。

苦労して司法試験に合格するも憧れの刑事弁護士に絶望

 

──上田監督は関西テレビの「弁護士記者」です。無実の人を救う刑事弁護士に憧れて司法試験を受けたものの、絶望して関西テレビに入社したと経歴に書かれています。絶望するきっかけは何だったのでしょうか。

上田 司法試験の勉強が進むにつれて、法律が実際にどう運用されているかが分かってくるわけです。

 法律には「疑わしきは罰せず」とあるのに、実態はかけ離れていて、どんどん有罪になっていることが分かってくる。刑事弁護だけで食べている弁護士はほぼいないんです。無実の依頼者が有罪になる姿を見ないといけないかもしれない。精神的に相当タフじゃないとやっていけない、自分には向いていないんじゃないかと思うようになりました。

 とどめを刺されたのが、司法試験を最後に受けた年の1月に公開された映画『それでもボクはやってない』(周防正行監督)です。刑事裁判の現実がエンターテインメントとして見事に描かれていて、受かっても刑事弁護はやめておこうと思いました。自分にできるとは思えなかった。

──入社後、法務部で企業内弁護士として働くも、記者としてなら刑事事件に向き合えるのではないかと、37歳の時に記者に転身されました。記者と法律家は上田さんの中でどのようなバランスを保っていますか。

上田 まず法律家と記者の思考形式には、かなりの共通点があると思います。つまり事実を調べて、論点を見つけて、それに対するさまざまな見解や主張・反論を精査して、法律家なら裁判官に伝えるための文書をまとめる、記者なら文章や映像にして視聴者に伝える、ということが主な仕事ですから、似ていると思っています。

 一方で違うところもあって、自分で問題を探し、不条理な立場に置かれている方に自分から会いに行って、彼らの声を社会に届けていくのは記者にしかできない仕事です。数は少ないかもしれませんが、自分の役割が果たせたときの喜びは、他にかえがたいものがあります。

 37歳からの出発でしたが、記者になってよかったし、自分に向いていたと思っています。

──映画に登場する秋田真志弁護士は、「Winny事件」や「プレサンス事件」でも無罪を勝ち取った弁護士です。そうした方を間近で取材されて、刑事弁護士への思いを再び掻き立てられることはないですか。

上田 いえ、秋田先生の法廷での尋問はすご過ぎて、自分には到底できないという気持ちになります。余計にやりたくなくなるというか(笑)。これからも自分は記者として、日本の刑事司法を考えていきたいし、私にはそれしかできないと思っています。