ここ数日、会社に泊まり込んでいる西郷特盛です。


東海地方の積雪情報を集め走行中のトラックにルートを指示しているのですが…。


お前らもプロなら

自分の判断で走れ!


と、言いたい気持ちを抑えてスマホを見つめています。


えっ!パソコンじゃないの?

と、思われたと思いますが私のスマホは会社のパソコン以上の情報を収集してます。


道路情報サイトの『ドラぷら』はもちろんですが他に気象庁の雨雲レーダーと天気図、各都道府県の道路情報、


そして、全国主要国道と観光協会のライブカメラです。


一昨日も


大阪便は新名神を目指せ。状況によっては名阪国道を使うぞ。

「親会社のトラックは名神に向かってますが名阪国道ですか?除雪されているんですか?高速を下りて大丈夫ですか?」


東名阪と伊勢湾岸道は雪だが名阪国道は雪無し、埃が舞うくらい路面は乾燥だ。

「本当ですか?」



ただ、他の車が落とした雪が凍結している可能性があるから注意しろ。

「信じますよ。了解!」


と、こんな具合で全部の車輌に指示をして全車無事に親会社のトラックが到着を断念しても延着する事なく到着しましたが





面倒くさ!




先ほども言いましたが


自分で

判断しろ!



まぁ、ドライバーが悪いのではなく人手不足で経験無しの素人を雇った会社が悪いので夜食を買ったコンビニのレシートを部長に請求して良しとしましょう。



そして、復旧し始めた私が目指す場所のライブカメラを見て思った事が…。



長男が産まれた翌年に発生した阪神淡路大震災を私は神戸のポートアイランドで被災しました。

午前4時に荷主の倉庫に到着すると前には同じ会社のトラックが停まっていてトラックを半分倉庫に入れて寝台で仮眠しました。

すると熟睡している私の体が強い衝撃と共に中に浮き寝台のマットに叩きつけられるとガラガラと音が鳴り響き『何が興った』とカーテンを開けるとフロントガラスには前のトラックは見えず鉄骨とスレートで埋められていました。

最初に考えたのは『爆発事故?』『兎に角逃げなくては』とドアを開けようとしてもドアは開かず崩れた鉄骨の軋む音を聞くと恐怖に襲われました。

脱出だけを考え選んだ手段はトラックをバックさせる。

当時のトラックにバックモニターは無く後ろにトラックや人が居たらと考えギヤをバックに入れバックライトとハザードランプを点灯して数分待ちました。

『これで後ろの車は私の行動を理解して道を開けてくれるはず』と信じトラックを強引にバックすると倉庫から脱出しましたが私が脱出した事で倉庫は完全に崩れてしまいました。

中の同僚を心配しましたが周囲の光景は電柱のトランスは燃え上がり割れた道路から蒸気の様な物が吹き出し臭いからガスと知りました。


ゴジラに襲われた街と同じ光景です。


『逃げなくては』と思いしましたが逃げる場所は無く運転席で呆然としていると冷静になり


『幸い敷地は広い、敷地の外は地獄の光景だが敷地内は安全かも?』


『横転した事故を何度も見たけどトラックのキャビンは原型を留めていた』


『もし、ガスが爆発して爆風で飛ばされてもトラックの中なら安全だ』



『トラックから出るな。ここを動くな』



日が昇る頃に地面からガスの流出が止まりトランスの炎も消えましたが明るくなり周囲を見ると、いつも配達していた倉庫は潰れ四方は黒煙が昇り離れた工場の煙突は傾いていました。


近くに炎が無い事を確認してトラックを出て崩れた倉庫に行き大声で同僚を呼びましたが返事は無くスレートを引き抜こうとしましたが抜けず私が乗る事で倉庫の崩れは増しました。


同僚を助けたいと思いながら自分が生き残る方法を考え、生き残る方を優先しました。


少しでも情報と思いラジオを聞くと絶望的内容ばかり。


夜が来て自分の持っている物を確認すると


焼酎一升

ツマミの菓子が少し

タバコ1カートン

 妻が持たせてくれた握り飯2個


それと屋外トイレのタンクの水


『握り飯は腐る前に食べなくては』と握り飯を食べながら焼酎を飲み無理矢理寝る事にしました。


『燃料は節約しなければならない』

と、エンジンを回さず薄い布団で凍えながら寝ると翌日は太陽が高く登り暑さで目が覚めました。


ラジオは途中で潰れたマンションや鉄道の被害を伝えるだけで私の欲しい情報は有りませんでした。

そもそも、欲しい情報が何か解らずラジオを聞きながら2日を過ごし無理矢理酔っぱらい寝て3日目の朝を迎え昼になると消防車が前に止まり


「大丈夫ですか?」と声をかけられました。


「大丈夫です」と答えてから倉庫に埋まっている同僚の救出を求めると隊員は瓦礫に向かいメガホンで呼びかけましたが返事は無く首を横に振りました。


「貴方ならどうします?クラクションを鳴らしたり大声を出しますよね。貴方は後から救助に来ます私達は他に向かいます」


同僚が埋まる瓦礫を見つめ

『帰って家族に会ったら何と言えば良いんだ』


悩みながらトラックで過ごすと「救助に来る」と言っていたが救助は来ず夜を迎えました。



翌日『救助に見捨てられた』とラジオを聞いていると道の復旧が進み重量規制は有るが重量規制をクリアすれば橋を渡り少しでも家に近づけると知りました。


それから私がした事は


積み荷を捨てる


元々、ここで卸す荷物だ!


トイレのタンクの水を飲みながら25㎏の袋に入ったプラスチック樹脂を12㌧全て手卸しで捨てました。


消防車が来る方向にトラックを走らせましたが問題が…。


左のバックミラーが壊れている。


内輪差が大きい大型車は左ミラー無しで走行する事は不可能。


かろうじて残ったアンダーミラーを左に無理矢理付け、右後方は直接窓から首を出し見る事でトラックを走り始めました。


橋の手前で止められ二時間待ちトラックの重量を計り許可が出るとポートアイランドから出る事ができました。


その後は国道2号の渋滞に並び渋滞で動かない対向車とタバコと缶コーヒー、タバコとパンなど物々交換をしながら京都まで来るとトラックディーラーに入りミラーを交換して高速に乗り初めてのパーキングエリアにトラックを止めると泣きながら天ぷら蕎麦を食べました。

そして、涙が止まらなくても5ヶ月の息子と当時は身長160㎝体重55㎏のモーちゃんが待つ家に向かうのでした。


死ぬ思いで帰ると普段と変わらない顔で

「お帰りなさい」と言うモーちゃんがいました。


でも、

「パパさんが死ぬ時は人類絶望の時だよ」

と笑いながら涙が流れていた顔は忘れられません。



帰ってから数日休みをもらい生き埋めになった同僚の事で会社に行くと同僚の無事を聞きました。


同僚はトイレで座っている時に震災が発生し倉庫は潰れましたが床面積と比べると柱が多いトイレは潰れずにトイレでタンクの水を飲み五日間過ごしたそうです。




現在、被災地のライブカメラを見ると重機を積んだトレーラーが被災地手前で待機している状況が見られます。

阪神淡路大震災の時と同じで橋の重量規制で渡れないのでしょう。



このライブカメラを見せて私の能登半島行きは中止を進言します。