第283回 美祢線を乗り鉄。大嶺支線の廃線跡を辿る | 『乗り鉄』中心ブログ(踏破編)

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2004年8月22日、4回分残っている『青春18きっぷ』を消化するべく山口県へ。
美祢線(2001年踏破済)などを乗り鉄し、旧・大嶺支線の廃線跡も歩きました。
今回の日程 2004年8月22日(日) 【前半】 

加古川608(山陽本線・943M)622姫路630(山陽新幹線・『ひかりレールスター341号』)756徳山803(『こだま623号』)829厚狭833(美祢線・725D)856南大嶺(徒歩・美祢線大嶺支線の廃線跡)大嶺駅跡(徒歩・廃線跡)南大嶺1029(美祢線・727D)1108長門市

【後半へ続く】
この日は朝4時半頃に起床。以前は早起きが苦手でしたが、2004年になってほぼ確実に早起きできるようになってきました。
朝食後に自宅を出発。加古川駅にて『18きっぷ』のスタンプが押され、まずはJR神戸線の下り普通電車(223系4連)に乗り姫路駅へ。
余談ですが、2004年の10月にJR神戸線の尼崎~姫路から113系電車が撤退しました。よって本線系の快速・新快速は221系(快速のみ)と223系に統一されました。

そして姫路駅では改札を出て、厚狭(あさ)までの新幹線のきっぷを購入、再入場後に新幹線ホームへと上がると、ほどなくして『ひかり341号』が入線しました。車両は『ひかりレールスター』用の700系7000番台8連(E編成)で、私は1号車の自由席へ。E席は全て埋まっていたものの、A席に空きがあったのでそこへ着席し、車窓を眺めながら移動を楽しみました。車内はA席に空きがあったように、さほど混雑していませんでした。

その後、『ひかり341号』を徳山で下車し、後続の『こだま623号』に乗り継ぎました。車両は100系の4連で、2階建車両のない100系はすこし寂しげにも映りました。車内はガラガラで、2列+2列シートのゆったりとした座席で厚狭まで快適に移動できました。そして厚狭では名残を惜しみつつ下車しました。

厚狭では4分の接続で美祢線の列車に乗り継ぎました。猛ダッシュしましたが、結局発車まで1分以上余裕ありました…。車内はオールロングシートのキハ120形0番台(長門色?)で、座席はほどほどに埋まっていたので私は最後方のポジションに落ち着き、3年ぶりとなる美祢線の車窓風景を楽しみました。湯ノ峠(ゆのとう)、厚保(あつ)、四郎ケ原と、特徴のある駅に停車していき、私は4駅目の南大嶺で下車しました。



イメージ 1

南大嶺駅にて撮影。キハ120形同士の交換風景です。

南大嶺で下車したのは、1997年に廃止となった「大嶺支線」の廃線跡を辿る為でした。駅にも大嶺支線の名残がありましたが、大嶺支線の列車が発着していた番線はホームが拡張されていました。



イメージ 2

南大嶺駅にて。
旧大嶺支線が使用していたホームには、現役時代の駅名標がそのまま使用されていました。
次駅が美祢(みね)で、「おおみね」の「おお」とローマ字部分が消されていました。

駅を出てしばらく歩くと、廃線跡に入ることができる区間へ入ったのでそこを歩き、腕木式信号機の遺構などを見ながら沿線風景を眺めました。やがて廃線跡へ入れない区間へと変わったので、迂回して大嶺駅跡を目指しました。そして歩くこと約40分、ようやく大嶺駅跡に到達できましたが、駅跡は現役当時の面影をとどめておらず、ほとんど更地になっていました…。



イメージ 3

2km地点にて。バラストが残っていて、キロポストも残っていました。
イメージ 4

大嶺駅跡にて。駅施設は撤去されていました。

天気はイマイチでしたが、何とか大嶺支線の探訪を終え、今度は来た道を引き返して南大嶺駅へ戻りましたが、次に乗る列車に間に合うかどうかギリギリのタイミングだったので最後は小走り状態でした。結局、3分前に到着して大丈夫でしたが、美祢線は本数が少ないので1本乗り遅れるとエラい事になっていました…。

南大嶺からは引き続き美祢線を北上しました。車両は相変わらずのキハ120形0番台単行でしたが、車内はガラガラだったのでロングシートに腰掛けて美祢の街並みや分岐していく専用線などを眺めました。そして於福(おふく)~渋木で峠を越えて、今度は谷を下り日本海側を目指します。長門湯本付近には温泉街も見られました。やがて平地へ出ると山陰本線と合流し、美祢線の終着駅である長門市駅に着きました。

(つづく)


今回の新規踏破路線は有りません

今回新たに踏破した廃線跡

路線名区間備考
JR西日本:美祢線(大嶺支線)南大嶺~大嶺(2.8km)1997年廃止
(参考:Wikipedia)