4月下旬のことだった。

朝飯をいつもより早めにして10時過ぎに、近くの寄(やどろぎ)集落まで行った。

 


【フランスパン・オリーブオイル・モズク・姉妹サラダ・セロリ】

 

青い空に浮かぶ 西丹沢の皐月の新緑と雲は こよなく美しい。

 

崖面になだれ咲く「一重の山吹の花」を観るには絶好の機会だ。

苫屋には八重の山吹しかないが、自然に群生し立ち茂る山吹は 一重の花が実にいい。

 

 

5月8日ともなると花は散り急ぎ 際立った鮮やかな黄色は 風に吹かれて幕を引く。

 

万葉集に「高市皇子(たけちのみこ)」山吹の歌がある。

 

高市皇子は、「大海人皇子(おゝあまのおゝじ)=後の天武帝」の10人の皇子の長男で、

672年の「壬申の乱」では 19歳にして軍事指揮官として天武軍を勝利に導き、天武政権樹立に大きな功績を残している。

頼られた長男の皇子でありながら、母の尼子娘(あまこのいらつめ)が胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘で 皇女ではないため身分は低かった。
そのため 後の持統帝を母とする草壁皇子(くさかべのみこ)・天智帝の皇女の大田皇女
(おおたのひめみこ)を母とする大津皇子(おゝつのみこ)に次ぐ地位でしかなかった。

 

しかし、謀叛の罪で刑死した大津皇子(686)。28歳で病去した皇太子 草壁皇子(689)の後を受けて、持統帝より「太政大臣」=(天皇に次ぐ朝廷最高位)に任ぜられている。

高市皇子が後皇子尊(のちのみこのみこと)と称せられたのは、そのような政情からであるが 立太子した確証はない。だが 人望厚く指導力に長けた風格ある皇子だったことは充分うかがえる。

歌聖の柿本人麻呂が 高市皇子の死(698・43歳)の時、殯宮(ひんきゅう)にて、

万葉集歌の中で 最長の挽歌を作っていることが それを物語っている。
 

『粗であり 野だが 卑ではない』そのような風貌でありながら、山吹の歌の優れた文芸性と、武人・貴人・慈愛を生涯持ち続けた高市皇子が浮かんで来る。

短い生涯だが、僕はこの皇子と 後の平安時代最末期の平忠度に強く魅力を感ずる

 

 

さて遅くなったが万葉歌、高市皇子山吹の歌を述べておきたい。

 

高市皇子の歌は 万葉集巻2に3首あるのみ。しかもすべて十市皇女(とおちのひめみこ)の死(678年)を悼んだ3首連作の挽歌で、最後の山吹の歌以外は 難訓で定説がない。
歌数と難解の意からも
高市皇子の歌人としての評価は低い。しかし 僕はそうは思わない。3首連作の挽歌は 恋慕し続けた十市皇女のことで埋め尽くされ、
高市皇子の情動が感涙と共に十市皇女の魂を揺るがしている。

十市皇女は「一重の山吹の花」のように可憐な女性だったのだろう。

『粗であり野だが卑ではない』高市皇子は 山吹の花に十市皇女の姿を想い重ね、自分が死するまで忘れることはあり得なかったと思う。

歌は 山吹の黄色と山清水に 黄泉(よみ)=「死の幻想界」を匂わせ、死の世界まで訪ねて行きたい と切実に訴えている。
 

山振の 立ち茂みたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく》 巻2/158番歌 高市皇子
   やまぶきの たちしげみたるやましみず くみにいかめど みちのしらなく

 歌意(苅谷):黄色い山振が立ち茂って 周りが囲まれている山の清水を汲んで、

       君に逢いに行き 蘇らせたいのだが、径が判らなくてどうすることも出来ず辛いのだ。

 

夜が明けてしまった。腹ごしらえだけはして 少し横になろう。