賀川光夫(かがわみつお=1923年・大正12-1月5日~2001年・平成13-3月9日)

自分が師と仰いだ『賀川光夫先生』78歳の生涯だった。

 

忌まわしい「ペンの暴力の報道被害」により、白玉の如き心を証とし 自らの生涯に決着を付ける自裁死を択ばれた。私は悔し涙が止まらなかった。

 

悔やまれるあの日…平成13年3月9日。 今年で23年の歳月が流れ過ぎた。

裁判に3年、最高裁にて全面勝訴の決着はついたが、師は永訣の人となった。

今や自分も恩師の齢に近い。1年後の25回忌(25周忌)には 自分の是非を正したい。

 

【賀川光夫・人と学問~賀川光夫先生古希記念論集~】 平成5年 に拙文があった。

 「~念を抱きました玉論の一つに、いわゆる「縄文後・晩期農耕論」~壮大な学説で

  あると理解しております。~」

このあたりに縄文後・晩期農耕論にのめり込んでいった自分の農耕論が垣間見えており、大変懐かしくも微笑ましい想いでもあった。

 

こんな一コマもある。

 

賀川先生。粗末ですが晩卓を飾りますので、花を愛でてください。丹沢の雪も解けてきますし 咲く花と穏やかな温かさで春をお寛ぎください。

  

 

   

 

   

 

   

【オカメ桜はまだ三分咲きです】

 

【咲く桜 まだ見ぬうちに 散る桜】

走り書きした 特攻隊の辞世の句も 潔癖な白玉の想いも隠されて、

考古学のお話を聴かせてください。何処までも 付いていきますよ先生。