ラグビーW杯 [日本]対[西サモア]は 29日(金)の4:00にキックオフだ。
29日といえば 今年の『中秋の名月』十五夜の日だ。
1989年(平成1)の12月初旬、僕は西サモアにいた。首都アピアには電気やホテルはあるが、一般の村には電気も水道もなく 特徴的なのは どの家にも壁がないことだ。
民俗調査も兼ねて2回訪れたが、壁のない空き家を居にして滞在した。
西サモア人は我々と同じモンゴロイドで、独特の優しさを持っており好感が持てる。南国なので一年中裸で暮らせる。僕の大好きな国だ。
W杯で日本と闘うことになったが、この国になら敗れてもいいとさえ思う。
今日はそんな西サモアのことを綴ってみよう。
下の写真は壁のない西サモア独特の一般住居、用事のない時は昼間からゴロゴロ。
海辺の家は高床もあるが、床面にサンゴを敷き詰め その上に御座を敷くことが多い。
Wikipedia DSC01739_Beach_in_Samoa (1).jpg 同Fale_on_Manono_Island.jpg
昼間は丸木舟を漕いでサンゴ礁の海に出かけ、潜って銛で魚を突いて獲ったり、
タロイモを掘りに出かけたりで、結構働くことが多い。
僕は常に 7mのコンベックスと 3mm方眼の野帳を携帯しているので、この壁のない
住居を測っては図面に移すための記録を取った。
帰国してから図面化したものが下図だ。僕が一週間ほど寝泊まりした海の近くの
快適な家だ。
お金と暇があれば、日本の冬を避けて三度 訪れたいものだ。
あの頃、言葉も通じない僕の行くところに いつもついて来た少年たちは もう子供もいる立派な大人になっているだろう。ひょっとすると今回のラグビーW杯の引率者として同行している可能性だってあるだろうな。
翌年1990年(平成2) 12月初旬 再度訪れた時は 、
僕が厄介になった サバイィ島ファレアルポ村のペセタ酋長の家は、白い砂の下に埋もれてしまい 跡形もなかった。ハリケーンですべて流されていたのだ。
途方に暮れて呆然と突っ立っていた僕の方に、遠くから誰かが歩いて来る。
手を振っているではないか、誰だ…? ペセタ酋長?!、僕は走った。
酋長は何度も涙をぬぐっている。僕も泣けた。ガッチリと抱き合った。良かった生きておられた!!
海から離れたヤシとタロイモ畑の傍に ご家族と住んでいらした。
皆さん満面の笑みで 僕を迎え入れてくださる。言葉も通じない僕を 優しく包み込んでくれた。こころ ただそれだけ、涙が流れて止まらなかった…。
3~4日目だったか、隣のウポル島アピアまで出かけるから一緒に来いと云う。
西サモアは鳥取県ほどの面積しかない。それでもサバイィ島の西の先端ファレアルポ村から 首都アピアまで結構な時間がかかる。陸路・船・陸路でアピアに到着。3時間半位だったと思うが… 、アピアは賑やかだった。
僕を入れて9人、いつも上半身裸のペセタ酋長に柄物半袖をプレゼントした。奥さんと娘二人にワンピース、孫4人にTシャツ。温かく迎えてくださったお礼は そんなものでは足りない。でも物凄く喜んでくださった。
レストランで食事と珈琲、僕も大満足だった。そして甘えてお願い事をした。
『旧会議堂の構造と大きさを測りたいから手伝ってくれ』
と。身振り手振りで何とか伝わって みんなで測り野帳に記録。
帰国して図示したのが下の図面だ。大円形建物 こんな建造物を見たのは驚きだった。
ラグビーW杯 [日本]対[西サモア]が近づいて来たので、昔 訪れたサモアのことを綴ってみた。僕にはそんな思い出のある大好きな人々と お国柄だ。
おとといの月と今日の朝昼食。
【25日21時08分の月】 【生ワカメスープ即席ラーメン】