5月5日が来る前に、昔々この日は女性の休息日だったということを、なるべく

解り易くお話したいと思いますがどうでしょう…。え~ッ、へ~ッ、ほ~ッ、

とお思いになっていただけると愉しさの分け合いですがね、まッ。レッツゴーです。

 

『端午の節句』発祥は古代中国の『厄祓い行事』で、それが伝来し変化たものです。 

え~ッ?となりますよねぇ。

ややこしいことから先に済ませましょう。『端』は最初・初め、という意味す。

『端午』は月の最初の午(ご=うま)の日のことで5月だけではなかったのです。

 

そこに古代中国伝来の、『奇数が重なる日はめでたい』という観念が加わります。

5月5日、正に奇数が重なってめでたい『重五(ちょうご)の日』になっていますね。

5月と5の日が「午(ご)の日」に通じているため『の月の(最初)の日』

となり『端午』といえば5月5日を指すようになった訳です。

え~ッ?、いや、へ~ッですかね。

更に、この時期は雨季(梅雨)を迎える直前に当たります。

湿気も多くうっとうしい日々が続く前に、病や厄除けの祓いは大切な行事でした。

この頃、盛りを迎える「菖蒲やヨモギ」は、香りが強く邪気を祓うとされており、

ヨモギで作った人形(ひとがた)を飾したり、菖蒲の根を細く刻み込んだ酒を飲む・

菖蒲湯で競漕する・野外で薬草を摘むなど邪気祓い行事が盛んに行われました。

類例は今でもありますよね。若菜・薬草摘み・豆まき・戸口に柊の葉と鰯の頭を飾す

などです。ほ~ッ、ですかね。

 

簡単ですが、重複の重複というややこしい説明はこのくらいです。

次のお話に移る前に、種子島の日典寺さんに頂戴したマグカップに、これも頂いた

沖縄の珈琲を注いで一服しましょう美味さ格別。え~ッそりゃないよ、ですか(笑)

 

さてさて、奈良時代はどうだったのでしょうか。

この風習が確実に日本に伝わったのは奈良時代で、『端午の節会(せちえ)』という

宮中行事になっています。菖蒲で屋根を葺く、菖蒲を身に付けるなどの他、

菖蒲やヨモギを丸く編み結糸した薬玉(くすだま)飾り、貴族間で薬玉を贈り合う。

このような慣習があったことが解っています。

『続日本紀』天平19年(747)5月5日には『端午節会』が催された様子が

次のように記されています。

〝~菖蒲鬘(あやめのかづら)をつけて参列し、天皇から薬玉(くすだま)を

 戴く決きまりだったが、菖蒲鬘をしない人は、宮中に入れないようにした~〟

 

更にこの習慣は平安時代にも続いていたようで、紫式部の『源氏物語』にも登場し、

清少納言が綴った『枕草子』(岩波古典文学大系)には、

〝節は五月にしく月はなし 菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし〟

  訳:節供は、五月五日に及ぶものはない。菖蒲やヨモギなどが、ともに香り強く香っている様子

      は、とても 趣きがある〟
 

ちょっと一息ということで種子島・屋久島から昨日届いた新茶を挿絵しましょうか。

新茶の初飲みというところですが、先へ進みましょう、レッツゴー。

 

では最終段階に参ります。『端午の節句』は女性のまつりのお話からです。

日本(倭)古来の田植えと『端午の節句』の結び付きからお話しましょう。

水稲耕作が伝わって日本(倭)に広く定着してからのことです。時代としては古墳後期

に遡るのではと思いますが文字資料がありません。『万葉集』にある「雨つづみ」とか

「ながめ忌み」は、この『5月が神聖な忌み月』とされていたことを伺わせます。

 

柿本人麻呂の歌とも云われている下記の万葉歌からも、田植えが神聖な行事で、

忌み籠りを済ませた清らかな乙女たちでなければ行えなかった祭事であった事

推測できます。

〝未通女(おとめ)らが 赤裳ひづちて(泥に汚して)

                      植えし田を 刈りて収めむ 蔵無の浜〟

 乙女たちは田植えをひかえて、仮小屋などに籠って穢を祓い浄めていたのです。

田植え時期の季語に『五月忌み』があります。この季語は日本(倭)古来の行事の

名残を引き継いでいます。
 

やがて時を経て、ここに5月5日の『端午の節句』が結び付きます。

乙女たちは菖蒲やヨモギで葺いた仮小屋に前夜から籠り穢れを祓い浄め、

神聖な身になってから田植えという祭事に臨むようになります。

彼女たちが籠る仮小屋は『女の家』とも呼ばれてい

た様で、『端午の節句』5月5日は女性の為のまつりとなり、当時の女性にとっては

誰に憚ることもなく、堂々と休める嬉しい限りの日になったのです。

今で言えば『女性感謝デー』のハシリでしょうかね。えッ、ほ~ッ、ですか?

    

 

女性の休息日とまつりが、何故、男の子のまつりになったか。

凡そ900年前、武士が台頭してくると『武を尚(ぶをたっとぶ)=尚武・勝負』

の語が「菖蒲」に通じ葉の形も剣を想わせるところから兜に飾したり、流鏑馬の装束

に用いたりして男の強さと結びつき、『男の子のまつり』に変化していったのです。

端午と菖蒲という組み合わせは、このころ本来の意味が大きく崩れたのでしょう。 

更に江戸時代、幕府が五節句の一つに『端午の節句』を定めたことで、

男児が逞しく育ち立身出世することを願う行事が広まり定着していったのです

端午の節句は男の子のまつり、という概念は、歴史的には意外と浅いですね。

 

如何だったでしょうか。

端午の節句に結びつく菖蒲・ヨモギの意味、へ~ッ、ですか? 

端午の節句は厄払いが原形、え~ッ、でしたか?

端午の節句は女性のまつりで休息日、ほ~ッ、そうか。でしたね。