飛鳥寺見学を終えて「飛鳥京苑池遺構」に向かった。

ここも懐かしい、1999年(H10)の大発見だ。僕が50を過ぎた頃で、視察参加の形で

調査に足を運んでいた。『日本書紀』天武14年11月の条に記されている「白錦後苑」

との関わりが大きく浮上した。

下の写真は、一段高い南池の石造物にゴムホースをひいて水を流した時のものだが、飛鳥時代の「放水仕掛け石」がそのままの位置で現代に甦ったことになる。

外からの使節等を歓迎する饗宴の場でもあり、天皇・高官の生活ぶりも見て取れた。

蒸し暑い6月のことだった。

【南池】

【北池調査中】

この状況を、学生達は盛んにスマホで確認していた。

あれから20年以上も続けられてきた調査は終了し、令和6年の世界文化遺産登録を 目指しているが、県はどの様に動くのだろう。

 

さてと、ここからは少し距離があるが高松塚古墳へ向かう。

道中「亀石」なる石の造形物に立ち寄ることになった。この石造物については諸説ある

が、石と水の都 飛鳥を象徴する石造物の一つとだけしておこうか。

 

高松塚古墳は最終目的地だ。そこに行く前にチョッと道草。

その方が飛鳥は石と水の都と云った意味がよく判る筈だ。

 

1999~2003年は、明日香・桜井市の調査に加わっていることが大半を占めていた。

下の写真の古墳は、人員不足で僕は半ば調査担当状態になっていた(参ったぜよ)。

小雪の舞う寒い日も現場を駆け巡り、いい想い出といえば…まッいい想い出だ。

 

この古墳は極めて珍しく谷部に築かれている。こんな立地に築く古墳は先ず無い。

前方部側に古代道「山田道」が走り、ちょうど飛鳥の東入口に該当する位置である。

僕はこの山田道を意識した古墳であると推測している。谷部だけあって湧水が多く、

非常に良好な状態で「木製品」がほゞ完形で残っていた(写真 小立古墳出土遺物)。

    【小立古墳第一次調査中】

 

     

 【小立古墳完掘状態】

 

 【小立古墳出土遺物】

 

さて同年(2000年 H12)にはもう一つの現場にも足を運んでいた。

「酒船石遺跡」である。丘陵裾には砂岩の切り石(黄色)による石垣が築かれ、

その一部が残存していた。『日本書紀』に記された「宮の東の山の石垣」との関係が

指摘され、斉明女帝の「両槻宮」であろうと思ってよい。

つまり石で囲まれた丘陵なのである。遠望すれば沖縄のグスクのように見えたかも。

 

谷部からは石張りの施設が発見され、水を使用する何らかの神聖な儀式の場であることが推定され、人目につかない立地から「禊ぎ」の場が有力になっている。

然しどうであろうか、僕は現代人が忌み嫌う場を想定している。

これについて述べるには、古墳前期まで遡る必要があり、論証するためにコツコツと

筆を進めているところだ。いや~時間がかかる。

 

写真だけ載せておく。飛鳥が「石と水の都」であり、その姿を彷彿させる遺構が残って

いる事がお解りいただけたであろうか。

学生達をここまで連れて来て、飛鳥本来の姿を説明したかったが、

彼らの作ったコースに敬意を払って従った。でないと暗くなってしまう。

     

 

 

寄り道がまたまた長時間を費やした。僕は脱線が多い、が…、

人生はその方が楽しい。次こそ高松塚古墳に辿り着こう。