5日の晩飯(娘作)

 

前回の「日本の考古学発祥の地➀」で記したように、日本人の手にによる日本考古学の発祥地は、330年前の水戸光圀の命による『上・下侍塚古墳(前方後方墳)』の

発掘からで、大田原市湯津上です。

 

ちょっと寄り道。ここで8日の月蝕の写真を6枚あげておきます。   

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           【17:41分】

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                                                       【22:57分】

 

さて、大田原市湯津上は、6世紀前半には成立していたと考えてよい「那須国」にあります。それが律令制施行により8世紀初頭には「下毛野国(後の下野国)」に組み込まれます。ここには中央政権の東国支配が大きく絡んでいます。

簡略すると、強大な勢力『毛奴国(現:群馬・栃木・茨城・山梨・信濃)』の分断です。

この件については、またの機会に述べてみましょう。

 

下写真・測量図・遺物は下侍塚古墳です。東側の一部から葺石が確認されています。

【下侍塚古墳 墳長84m 東側から。後方部の人影は僕、古墳との比率】

 

【下侍塚古墳トレンチ調査と測量図、S50年代 湯津上村教育委員会】

 

        

【湯津神村車塚御修理より】 【左 高坏、右 土師有段口辺壷】

 

上記の遺物からは、決め手になる年代を導き出すことはできませんが、

土師器の有段口辺壷は見かけない形で、肩部の張りが強く胴部の張りと丸みが

ありません。

古式の二重口縁壷との繋がりが考え難く、朱の痕跡があるところから在地性の

強い独特の供献壷という感が強く、墳形と合わせて考えると前期古墳ではありますが、4世紀後半と考えた方がいいのではないかと推測されます。

 

前回の「日本の考古学発祥の地➀」で書き忘れたので、上侍塚北古墳の写真と遺物・測量図を載せておきます。徳川光圀時代に墳丘保護のため盛土されています、

【上侍塚古墳 墳長114m】

 

【上から 捩文鏡?、腕輪型席製品、土製または石製管玉

 

 【上侍塚古墳 トレンチ発掘、航空レーザー測量図。栃木県教育委員会

 

遺物と墳形から前期古墳でも4世紀終末の築造と考えらます。

歴史の中に眠る埋蔵文化遺産。大切にしたいですね。未来に継承していくために

考古学の意義が問われる時代です。皆さまも一度お尋ねください。

それとも僕と一緒に歩いてみますか?今回は➀➁でお話を終わります。