先ずは昼飯。
1877年6月(明治10)、E・Sモース(エドワード・シルベスター・モース)が、横浜から東京へと向かう列車の窓から大森付近の崖に貝殻が堆積しているのを発見し、
3ヶ月後に発掘します。これが、『大森貝塚』です。
この大森貝塚の発掘は、日本最初の学術的調査として
教科書でもこの地が『日本の考古学発祥の地』と呼ばれています。
ところがそれより185年前に、日本人の手で立派な考古学調査が行われています。
富士山の大噴火、1707年(宝永4)の15年前、1692年(元禄5)のことです。
徳川光圀(水戸黄門)の命を受け発掘調査がなされたのは、当時『車塚』と称されていた「上侍塚古墳」「下侍塚古墳」で、調査担当者は儒学者の佐々介三郎宗淳(助さん)
と豪農の大金重貞です。
調査状況は、大金重貞が書いた『湯津神村車塚御修理』から知ることができます。
【下侍塚古墳出土の捩文鏡の筆による描画、大田原市湯津上資料館図録】
発掘調査で出土した遺物は、筆で詳細な描画・寸法が記され、松で作られた板箱に納められ再び埋め戻されています。劣化を防ぐために保存処理の必要があり、再発掘を急がねばなりません。
また、黄門様は大金重貞の家に宿泊された記録があります。
大金家の門(確か長屋門)は当時のまま現存していますが、建築部材が激しく痛んでいますので、国指定重要文化財にして早急な保存体制が急務です。
日本人の手で今から330年前に実施された大田原市湯津上「上・下侍塚古墳」の発掘調査は、大田原市湯津上を『日本の考古学発祥の地』と呼ぶに相応しいと云えます。
【日本考古学発祥の地 上侍塚古墳。墳長114m那須地方最大の前方後方墳。古墳前期4世紀末】
【上侍塚北古墳。墳長48.5m前方後方墳。古墳時代前期だが、
墳形からしてこの古墳の方が古く、4世紀中葉となろう】
【上侍塚北古墳の後方部より、南の上侍塚古墳を臨む。】
【日本考古学発祥の地の石碑。国宝『那須国造碑』は笠石神社のご神体で、奥にある】
日本の考古学発祥の地②に続く