さて、『五節句(節供)』という、季節の節目になる大事な日があります。
中国・唐の時代(618~907年)の暦で決められたものですが、この『五節句』の日は、
「邪気払い(避邪)・無病息災」の意味で、神に供物を捧げる大切な行事を行います。
年に『陽数=奇数=縁起の良い数』が並ぶ月日です。
元旦(1月1日)は、年の初めの特別な日なので別格と考えてください。そこで正月の
節句は7日になります。
➀人日(じんじつ・1月7日
➁上巳(じょうし・3月3日)
➂端午(たんご・5月5日)
➃七夕(しちせき・7月7日)
➄重陽(ちょうよう・9月9日)
この五節句のひとつが『七夕(しちせき)』です。
「七夕(しちせき)」を何故「タナバタ」と読むか?、
長くなりますので、重複しておりますが僕の2021年7月7日・9日の記事をご参考に。
星祭り(天の川・牽牛星・織女星)は、前漢(BC206~AD8年)の時代からあったことが『文選(もんぜん)』という書物に書かれていますが、7月7日に行われたかは不明です。前漢の逸話や出来事を記したある書物(晋の時代編纂)には、7月7日に采女
(うねめ)が、7つの針に糸を通し裁縫などの上達を祈る
『乞巧奠(きこうでん)』の風習が記されています。
しかし、織女星のことは触れられていません。
これ一休みの写真のつもり
さあいよいよです。中国の南北朝時代(北魏⇔宋439~589年)のことです。
『荊楚歳時記(けいそさいじき)』という書物に、7月7日は「牽牛」と「織女」
が会う夜で、女性たちが彩も鮮やかな糸を7本の針に通し、供物を庭に並べて裁縫・手芸の上達を星に祈り捧げた。という風なことが記されています。
ここで初めて、乞巧奠(きこうでん)と星祭り(牽牛・織女伝説)が一体に捉えられています。チョッと疑問ですが、なんで牽牛と織女は年に1度だけしか会えないんでしょう?
「牽牛・織女伝説」を語れば、長くなるのでザッと触れておきましょう。
【牽牛は農耕、織女は機織りで一生懸命働いていました。
ある時、2人は恋に落ちたのです。さあ、何も手に着かない。
恋の炎は燃え上がり、2人は全く仕事をしなくなったんです。
神様は怒りました。そして2人を引き離したんです。
神様も残酷ですよねえ、きっと燃え上がるような恋なんて経験
したことないんでしょうね。
2人は天の川を挟んで遠くに離されてしまいました。
神様は、あまりにも哀しむ2人を見て、じゃあ1年に1回だけ、
天の川を渡って会うことを許してやろう、と考えました】
まッ、これが「牽牛・織女伝説」のあらましです。
これ休憩の写真(夏さん、最初に教えていただいていてありがとうございました)
現在でも『冷泉家』では、旧暦7月7日の夕方から、宮中で古くから行われていた
「乞巧奠(きこうでん)」の行事を行っています。
かつて公開されていたので、コロナの終息をみてご覧になられたら如何でしょう。
せっかくここまで来たのですからねぇ「タナバタ」の万葉歌を1つ挙げておましょう。
万葉集には130を超えるタナバタの歌がありますが、
その一つ、現代語訳しなくても解る歌に下記のような秀歌があります。
〖天の川 遠き渡りは なけれども 君が舟出は 年にこそ待て〗 巻10
天の川の川幅は狭いと考えられていたのですね。
それなのにですよ、年に一度しか会えない。なんと切ないことでしょう。
更に他の歌には〝秋風〟という言葉が多く見られます。
これは、タナバタが立秋に近い晩夏に行われていたことの証です。
確かにその頃でないと天の川はクッキリ見えませんよね。しかも古来秋の季語です。
ということは、新暦の7月7日に行うタナバタは・・・
〝梅雨明け乞い〟ということになりますよねえ、過言失礼!