瀬戸内海の交易路と臨海古墳
1.瀬戸内ルートの確立
 瀬戸内海が現在に近い形になるのは縄文早期後半以降とされ、姫島産黒曜石が西部瀬戸内に広く分布をみせる時期に重なる。姫島は、大分県国東半島伊美町の沖合17kmに浮かぶ島で周防灘と伊予灘を望む位置にあり、やや透明感のある灰黒色と乳白色の二種類の黒曜石の産地である。

 

姫島産黒曜石の分布は、縄文海進のピーク時(約6500年前)から西部瀬戸内方面に多量に運ばれ、周防灘・伊予灘・安芸灘・そして島嶼と、遠距離まで活発な交易がなされている。ここに舟による物資輸送の瀬戸内ルートの確立を看取ることができる。

 

◎西部瀬戸内経由の姫島産黒曜石の出土遺跡の極一部を下記に示す。
  大分県大分市横尾遺跡…………早期末
  愛媛県上黒岩遺跡………………草創期
  愛媛県伊予市中津川洞遺跡……早期
  高知県宿毛市橋上遺跡…………中期~後期
  高知県中村市具同中山遺跡……後期(表採)
  山口県宇部市月崎遺跡…………前期~晩期(表採)
  山口県山口市美濃ケ浜遺跡……前期~晩期(表採)
  広島県廿日市町地御前南遺跡…後期主体(剥片・砕片を含む30%が姫島産)
  広島県熊野町道上遺跡…………早期中葉~前期
(B地区石器、剥片・砕片220点中姫島産37%強)

 岡山県吉野口遺跡………………晩期
  島根県益田市広戸B遺跡………後期前葉主体(剥片・砕片が多量を占める)

益田市広戸B遺跡の出土状態は、相当量の石核が持ち込まれ製品(石鏃など)が作られていたことを示しており、海洋性集団の移住という意味で興味深い
 

大分県の安国寺式(系)壷形土器は、このルートを踏襲して弥生末から古墳前期初頭にかけて拠点的な動きをみせている。また瀬戸内海ではないが九州全域から沖縄にかけて分布する曽畑式土器(縄文前期後半)の伝播も、縄文前期段階には既に海上

ルートが確立されていたことを示唆している

これは後々「隼人」と称された海洋性に富んだ南九州の複数集団を一考するのに役立つ考古学的知見である。

彼らの始祖は記紀神話の「海幸彦」と称されている。(大分県考古学会資料 苅谷 1993)

               

                       [ミカンの花が咲いた]

                  

 

2.瀬戸内の組織集団『海人族』
瀬戸内海は、本州西部・四国・九州の10府県に囲まれ、東西約440キロ、南北約5~55キロの範囲に1408の島嶼が点在し
(外周0.1km以上727島、海図記載681島、海上保安庁1986)

東は紀淡・鳴門海峡、西は関門・豊予海峡で外海に通ずる。
 こうした地形や環境は、古来より物流の重要な海路となり、湾入や島嶼は風待ち、

潮待ちの津・浦、港・倉庫群・停泊地としての機能を果たした。

瀬戸内の出現期古墳が臨海部に多く存在することは、このような海上交通と深く結びついている。

大和王権は、在地の政治集団(以降ク二と記す)と連帯することで、瀬戸内航路上の

重要地点に飛び石状に中継基地を設け、勢力を広げていったと考えられる。

但し、この連帯関係は大和王権が一方的に優位に立つものではなく、在地勢力の独立性は保たれていたと考えてよい。それは各地域の出現期古墳の墳形に、大和との共通性は認められても、副葬品のセット・内部構造・複数の埋葬主体部の敷設などに在地色が強く独自性をもつ古墳が多いことからも推測される。

もし大和王権が強大であれば、その連帯下で墳形・内部構造・葬送土器・祭祀儀礼ともに斉一性が強く認められる筈である。
つまり、古墳時代前期前半の連帯関係にはまだ脆弱さが残り、大和王権は合従連衡といった巧みな外交政策を用いたと思われる。

瀬戸内にみられる前方後円(方)墳の規模は、そうした政策の現れと考えられ、在地のク二との力関係・連帯の強さ・海路上の要衝地などによって大小の差があり、被葬者のほとんどは在地のク二の王・首長層である。

このような政策の下に大和王権の体制は、4世紀前半までには西日本各地域に浸透している。
 

こうした状況からは、大和王権の『単独制圧』は考えられず、各地域の勢力と大和王権を結ぶ何らかの組織の介在が想定される。

それは土地に定着する農耕生活に基盤をもたず、強く結束した組織として独自のテリトリーと情報網をもち、海洋を広範囲に活動する集団『海人族』が尤も適している。

彼らは海上交通に長け、海運・漁労・製塩を生業とし、各地域のクニにとって有益な存在であったと考えられる。殊に、大和王権にとって中国王朝・朝鮮半島との交易には、畿内までの瀬戸内海上ルートの確保が最重要で、『海人族』との連繋を極めて重要視していたことは認められる。

このように瀬戸内の古墳出現には『海人族』の介在があり、殊に、臨海部の出現期古墳の被葬者には、在地のク二の王・首長の他に、『海人族』の首長層も想定される。
 

                古墳の奥に柳井湾が広がる 2014年撮影(苅谷)

     同古墳出土 面径44.8cm、古墳出土のものでは全国最大 2014年撮影(苅谷)

 

古墳がその地域の政治的経済的地位の反映であることは言うまでもない。その築造には多大な労働力が必要であり、背景にはそれ相応の農耕生産力と経済基盤をもつ有力集団の存在が欠かせない。
ところが、瀬戸内臨海部の出現期古墳のなかには、そうした政治的経済的基盤がないものや、例えあっても極めて乏しく、古墳築造の背景を成し得ないものがある。

それでも臨海部の最高立地に威風堂々と築造されているものがかなりの数に上る。

それは『海人族』そのものの古墳である可能性もあり、彼らの族長墓であり始祖廟的

モニュメントの要素も含んでいると類推される。

こうした古墳の特徴は、海からの確認が容易で海上交通の重要な目印となるばかりではなく、舟の現位置を確認するための「山立て」の目標となる。そこで、瀬戸内臨海部の『海人族』と出現期古墳を取り上げてみる。

 

3.瀬戸内臨海部の古墳(下線部は海人族の可能性のある古墳)

先ず、東部・中部瀬戸内臨海部に分布する出現期~前期古墳を主体に少例をあげてみる。
神戸市灘区の海岸線には3C後半の西求塚古墳(前方後方95m)。瀬戸内航路の要衝明石海峡に4C末の五色塚(前方後円墳194m)。3C中葉の加古川市西条52号墳(前方後円墳52m)。揖保群御津町の播磨灘を一望する3C初頭~4C初頭の綾部山古墳群6基。2C末3C初頭の鳴門市萩原1号(18+8.5m円+突出部の積石塚)・2号墳(21.2+5.6m円+突出部の積石塚)。4C末~6Cの牛窓湾に浮かぶ黒島の5基(前方後円墳)児島水道を見下ろす3C末の網浜茶臼山古墳(前方後円墳83m)。4C初頭の湊茶臼山古墳(前方後円墳130m)。江戸時代の干拓まで海に面していた4C中葉の倉敷市玉島天王山古墳(前方後円墳.残存径30m)。など多くの前期古墳が存在し、在地の有力首長層と大和王権との接触が『海人族』を介して積極的に行われていたこを示している。

 

この状況は西部瀬戸から東九州(広島県・山口県・愛媛県・大分県)にかけても同様である。斎灘を見下ろす3C後半の今治市妙見山1号墳(前方後円墳56m)。同市の燧灘を見下ろす3C半ばの雉之尾1号墳(前方後方墳30.5m)同市の燧灘から来島海峡に入る基部に位置する4C中葉の相の谷1号墳(前方後円墳80.8m)。松山平野から伊予灘を遠望する3C中葉の松山市朝日谷2号墳(前方後円墳26m)。広島市太田川流域の3C後半に位置付けられる宇那木山2号墳(前方後円墳35m)・4C初頭の中小田1号墳(前方後円墳30m)。山口県柳井市の4C後半の茶臼山古墳(前方後円墳90m)➜(上記写真参照)。同県周南市の3C末の竹島御家老屋敷古墳(前方後円墳56m)。下関市の響灘を望む4C末の仁馬山古墳(前方後円墳74.8m・百済式土器出土)。福岡県苅田町の周防灘を望む3C末の豊前石塚山古墳(前方後円墳120m)。伊予灘を望む大分県安岐町の3C後半の下原古墳(前方後円墳25m)。東に伊予の佐多岬、南に別府湾を挟んで大分市を望む同県杵築市4C前半の小熊山古墳(前方後円墳120m)豊予海峡を見下ろす4C前半の大分市大蔵古墳(前方後円墳50m)。同丘陵上に位置する4C末の亀塚古墳(前方後円墳120m)。など大小様々な規模だが3C前半~4C代の前方後円(方)墳が築造されている。

 

4.海人族の首長墳の可能性(青字の古墳は蓋然性が非常に高い)
それは否定されるかもしれない。しかし前期古墳にあって高い確率で『海人族』のリーダーの古墳と考えられるのは、伊予では雉之尾1号墳・相之谷1号墳があげられる。雉之尾1号墳は燧灘に面し北の来島海峡を睥睨する。この海域の制海権を掌握した『海人族』の始祖的首長の墳墓ではなかったか。来島海峡を眼下に臨む相之谷1号墳はその数世代後の同族か地域首長と思われ、当該期 この海域の支配権は頂点に達している。

相之谷1号墳は伊予最大の前方後円墳(80.8m)であり、この地域一帯の『海人族』の頂点に立つ海士族大首長か地域有力王であろう。高縄半島の先端に近い西北部に位置し斎灘を望む妙見山1号墳の被葬者は、高縄半島西海岸部に拠点を構えていた複数の『海人族』を統率した地域有力王と考えられる。
次に、児島水道を見下ろす網浜茶臼山古墳湊茶臼山古墳は、『海人族』の大首長を考えても的外れではなかろう。桜井茶臼山古墳と同型の正始元年鏡が出土した山口県周南市の竹島御家老屋敷古墳だが、徒歩で回れるほどの細長い小さな島で、磯の波音が聞こえる海抜20m弱のところに位置している。出土遺物からして、この古墳も『海人族』の大首長の埋葬と深くかかわっている。柳井市の柳井茶臼山古墳は柳井湾を見下ろす高台にあり44.8cmの鼉龍鏡が出土している(上記写真参照)。

被葬者は在地首長であろうが、『海人族』の介在による大和王権の力が強くおよんでいたことを44.8cmの大鏡がものがたっている。同県熊毛郡平尾町の神花山古墳、5C前半(前方後円墳30m)は女性を埋葬した古墳で、「海女」の権力者考えられる。両古墳は、下関の関門を抜け島嶼の少ない周防灘を東に航行した上関の関門に位置している。大和王権にとっては、海上交易の要衝の地である

下関の仁馬山古墳は、響灘から下関に入る高台に位置し百済系の土器が出土している。『海人族』と関連をもつ在地の首長墓であろう。
  

次に豊後では小熊山古墳大蔵古墳亀塚古墳である。小熊山古墳は、別府湾北岸一帯から国東半島にかけて分散する『海人族』を統率し、大和王権の西進に貢献した大首長であろう。別府湾南岸には大蔵古墳、亀塚古墳がある。両古墳とも同一丘陵の先端部に近接して築造された同族の古墳で大蔵古墳が先行するが、約半世紀後の亀塚古墳の時期、この一帯の『海人族』の勢力は絶頂期を迎える。律令制下の海部郡に属する地域である。
  さて、小熊山古墳も亀塚古墳も、葺石工法が部分的に変わるのは何故であろうか。海人族のリーダーの死に際し、西部瀬戸内の『海人族』が動員されたとしたら、葺石工区の違いからそれも理解できる。だとすれば、『海人族』の結束力の強さ、行動範囲の広さ、そして情報伝達の速さを看取ることができる。大和王権が『海人族』との連携を強く望んだのも充分理解できよう。
  海上を見下ろす前方後円(方)墳、それは『海人族』との繋がりをより強固にしていった大和王権が、彼らの介在により在地勢力と連帯していった結果に相違あるまい。

後々「隼人」と称された南九州の複数集団は、記紀によると「海幸彦」が始祖となっている。これは彼らが「海洋集団」であったことを意味している。記紀神話は大和王権によって創作された神代物語ではあるが、大和王権が南九州の『海人族』を重視したことが表れている。

             『邪馬台国時代の西部瀬戸と近畿』二上山博物館 苅谷俊介2009(部分)

 

おわりに

20年以上前に書いた論考だが、新知見を加味しても変わりはない。

参考までに古墳時代に確立していた西部瀬戸の海上ルートを挙げておく。畿内から九州、または九州から畿内への移動については、各海域の制海権を握る「海人族」の連携と潮流によってルートは一定しない。文字のない古墳時代に限らずどの時代でも同様である。まして、平安・戦国となると海賊の出没が多く航路は常に変わることを念頭に置く必要かある。「土佐日記」ですらそうであり、記録に残すのは難しい。    

 

        『妙見山1号墳(報告・論考編)』2008 第一章 妙見山をとりまく環境

            -殊に古墳のある高縄半島の地理特性について- 谷若倫郎

 

◎上記論考参考資料

『綾部山39号墓発掘調査報告書』 御津町埋蔵文化財報告書5 御津町教育委員会 2005
仁馬山古墳 『発掘調査現地説明会資料』 下関教育委員会 2006
長嶺正秀 『筑紫政権からヤマト政権へ・豊前石塚山古墳』 新泉社 2005
清水宗昭 「第1章 原始」『別府市誌』 別府市教育委員会 2003
平川信哉・吉田和彦 『小熊山古墳発掘調査報告書』 杵築市教育委員会 2006
玉永光洋・小林昭彦ほか 『安岐城・下原古墳』 大分県教育委員会 1988
下條信行 「終章・妙見山古墳群1号墳の歴史的地域的位置付け」『妙見山1号墳』今治市教育委員会        2008