やはりお供え読経からだな、おやつはイチゴ。夕食はブリ大根、ベストの味だ。

        

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

終戦の痛々しい爪痕が、僕の子供時代まで残っている珍しい写真があった。

一部分しか写ってないがこの光景は累々と300mほど続いていた。

ウクライナ支援に走ったのは、こんな想い出も手伝ったのかもしれない。

次の記述に目を通してから写真をご覧いただきたい。

 

別府は、駐留米軍の保養地として戦火は免れたが、隣接する我がふるさと日出町は

そうではなかった。

ミッドウェー海戦で空母4隻を撃沈された海軍は、貨客船〝あるぜんちな丸〟を

軍艦海鷹(かいよう)に改名し航空母艦に類別した。謂わば〝貨客船偽装空母〟だ。

海鷹は、四国の佐多岬で機雷に触れ航行不能となり、駆逐艦夕風に曳航された後、別府湾の日出町城下海岸で座礁。真夏の空襲により大破し船体は放棄されたままで終戦を迎えた。

戦後、サルベージによって解体が始まったが、僕の小学4年頃まで続いていた。

暘谷城址が小学校だったので、教室の窓からよく見えた。

 

        [戦争の傷痕、幼稚園児の時。帽子をかぶっているのが僕]

         [恥ずかしいがおまけの写真、城の石垣を登る二人] 

 

もう少し暘谷城のことを記しておこう。 

小学校東門南側にある鐘楼の鐘は、名君の誉れ高い三代藩主木下俊長

1695年(元禄8)に鋳造させたものだ。僕が通った幼稚園はこの鐘楼の南側にあった。

             [元禄の釣鐘]

                        [同釣鐘の年号]

                

 

暘谷城の天守台から、僕が考古学と出会った早水台遺跡が望める。

縄文早期(約9~8千年前)の広大な遺跡だ。

高校に通うのが嫌で、不純な動機から参加した発掘の土運びだったが、そこで考古学の生涯の恩師となる方と巡り合った。その方の名が賀川光夫先生である。

           [暘谷城天守台から遠望した早水台遺跡]

友が早水台遺跡に行くという。レンタカーで道なき道を探して辿り着いた。

大きく変貌していたが、あの日のままの石碑が迎えてくれた。嬉し涙の雨が降る。

 

賀川先生のお眠りになる霊園も雨だった。皆、賀川先生を尊敬して止まない面々だ。

           秋山さんが霊園の写真をA4紙で送ってくれた。

                 

 〝咲く桜 まだ見ぬうちに 散る桜〟走り書きで残された先生の無念の辞世…

 お約束した桜の花すらお供えできず、祈りは涙で言葉にならなかった。

 

夜、ホテルで食事して酒宴。歳は経たが、僕ら5人はみな明るく明日がある。

窓越しの別府湾に月光が尾を引く。

見上げれば半月が輝いていた。

 さあ次のふるさと紀行は、美味い食べ物の話をしよう。