供えないと申し訳ない気がしてね。おやつのエクレア。

         

     夕食は、牛とキャベツの炒め煮に生卵、チリメン、トマトの荏胡麻敷き。

              

 

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みんな一緒で愉しく想い出深い旅になった。少し我がふるさと自慢と洒落こもうか。

大分県速見郡日出町(はやみぐんひじまち)。

ある講演で〝仙人部落満月会〟の大倉氏が作成してくれた地図がある。

日出町は国東半島の南基部に位置し、別府湾に面する風光明媚で穏やかな地勢だ。

 

           

            日出方面        別府方面(うっすらと高崎山)

          

 

1551年(天文20)フランシスコザビエルは、山口の戦国大名大内義隆と再謁見した後、大分の戦国大名大友宗麟に会うため、陸路で日出町背後の鹿鳴越道(かなごえみち)の峠を越え、日出町に到着。キリスト教の本格的布教はここから始まった。

ザビエルは日出港より大友館(大分市)まで船で行き、大友宗麟の保護を受け布教活動は広がった。
大友宗麟は、洗礼名ドン・フランシスコで〝豊後の王〟と称されたキリシタン大名だ。
しかし1586年(天正14)、薩摩島津氏の猛攻を受け存亡の危機を迎えた。
翌年、豊臣秀吉軍10万が九州入りし薩摩島津氏は敗退する。
秀吉による九州平定は、最盛期に豊後・築後・豊前・肥前・肥後・筑前の6国と、日向・伊予の各半分を領有していた大友氏の衰退期でもある。
 
 
戦国時代織豊期の日出町の一部を紹介したが、〝関ケ原の戦い〟以降の話も記しておこう。
関ヶ原合戦の翌年1601~2年(慶長6~7)年にかけて、初代藩主木下延俊は三万石の領主として日出町に城を構えた。僅か1年余の築城だ。
陰には細川忠興の支援がある。何故ならば、延俊の正室が忠興の妹加賀だからである。そして秀吉の正室おね(ねね)が延俊の叔母であることも関係するだろう。
その後、立石藩の延由に五千石を分封し、日出藩は二万五千石となる。
 
木下家系図を示す。関ヶ原合戦で寝返った小早川秀秋は、初代藩主延俊の実弟だ。
 
         
                      
別府湾を望むこの城を名付けて〝暘谷城(ようこくじょう)〟という。
                「大手門の石碑とかまぼこ石」
         
 
            内堀から別府湾を望む。典型的な海城である。
 
                  築城時の隅櫓(表鬼門櫓)
        
             
                  復原された隅櫓(表鬼門櫓)
  屋根の〝隅切り工法〟は極めて珍しく、日本に残る鬼門櫓に類例を知らない。
  想像に過ぎないが三代藩主俊長の代に再構築されたのではないかと考えられる。
  表鬼門方向の外堀角に〝若宮八幡〟を建立し、更に同方向の山中に、
  自分の墓所として〝横津神社〟を配し、身をもって暘谷城を守護する布陣を
  呈している。
  名君の誉れ高き藩主であったことは、他の記録からも読み取れるが、代々の繁栄
  を願って邪気を祓う姿勢は、庶民にも尊敬されたに違いあるまい。
  ちなみに、僕の「俊」の文字は日出藩主からいただいたものだ。
 
次は鐘楼から恩師のお墓参り。食べ物、風景などを記してみる。