2001年(平成13)3月9日、恩師賀川光夫先生は78歳で自尽された。21年になる。

ペンの暴力は、濁り無き白石の如き偉大なる考古学者を死に陥れた。

  

             「別府大学聖嶽問題検討委員会 2001/5/1改訂」

                

 

それは、東北で〝神の手〟と持て囃された石器実測図も描けず専門的知識もない

Fという一人の発掘作業員の旧石器捏造事件に端を発した。

あるテレビ映像に違和感を覚えた僕は、彼のいる「東北旧石器文化研究所」を訪ねたことがある。

槍先に装着するポイント(尖頭器)を観察した時、疑問を抱いた。

Fは某遺跡で検出した後期旧石器前半のポイントだと言った。

奇麗な「鋸歯状剥離」と「押圧剥離痕」が見事に残っていた。石器に詳しくない僕だがこれは…縄文創期以前にはならない!?と直観した。

 

「Fさん、実に奇麗ですねえ」

僕の一言で大男は急に黙り込んだ。しばし気まずい雰囲気がFとの間に漂った。

僕は調査資金援助のつもりで報告書を6冊購入してプレハブを去った。

Fの〝神の手〟で、日本の旧石器時代は既に約50万年前の前期旧石器時代にまで遡りつつあった。北京原人の時代だ。

出土状況も出土層位も看ていない僕は、多くの専門家を相手に、

「あれは縄文のポイントです」

と、言える筈が無かった。

 

それからひと月半程経った2000年(平成12)11月5日の毎日新聞第一面を、

旧石器捏造の大きな記事が飾った。

即座に一橋でシンポジウムが開催され、H・S・Oの考古学者3氏が壇上に立ち答弁が始まった。

中心になるべきO氏の答弁は自分を庇う言い訳に過ぎなかった。H氏が進行役として説明が進むなか、話はしだいに大分県の聖嶽洞窟出土の石器への疑問に移っていった。聴講していた僕は論点のすり替えにしか思えなかった。

 

2001年(平成13)1月、某週刊誌が発売された。

考古学者たちが口にしたくてもできない「第二の神の手」が大分聖嶽人周辺にいる

という大見出しで賀川光夫先生を指していた。しかも6週にわたり連載されたのだ。

先生の持論は「考古学は平和の学問」だった。

 

3月8日、その日発売の聖嶽疑惑の続報記事について、賀川先生は聖嶽問題を直接週刊誌に流したH氏に2度の電話をかけられた。

「これはひどいですよ」

H氏は、あまり相手にしないようにと(週刊誌を)忠告しただけだったと、3月11日読売新聞朝刊に記されている。

僕は、はらわたが煮えくり返っていた。

H、お前が週刊誌に流した張本人ではないか!。それが賀川先生への言葉か!

 

賀川先生は再調査を歓迎しておられた。これで考古学の前進に繋がると。

先生が調査された1962年(昭和37)の頃は、旧石器研究が始まったばかりで、他の研究事例がまだまだ少ない段階だった。発掘直後から賀川先生は報告書に石器の出土状況に疑問があることを記しておられ、石器は第三者に鑑定依頼している。
そして後代の事例蓄積に期待することを記されている。

先生が、石器の出土状況に強い疑問を抱かれていたことは、下に示した報告書の中で述べておられる。

        

          傍線と囲み線は、僕が記したものだ。

         

 

         

            冒頭から6行までを拡大したのが下の記述である。

                  

 

上記報告書の記述をを箇条書きに纏めると

◎細石器は剥片利用のものでその形態に統一性が少ない

◎発見された部位がいわゆる包含層というより散乱の状態で数も全部で八個を数え 

  たに過ぎない

◎このような石器数から本洞内に住居をかまえたとは考えられず、その利用の推測に

  きわ めて困難な状況である

 

これだけで賀川先生が聖嶽洞窟の石器を否定的に考えておられたことが明らかだ。その洞察力をそなえた方を、石器捏造者と言えるわけがあるまい。

 

Hに抗議の電話をされた翌日、2001年(平成13)3月9日、先生は自尽された。

僕はご家族とご一緒に遺骨をおさめた。こぼれる涙は無念さと悔しさと怒りだった。

前後多々山のようにあったが、これ以上のことを記すつもりはない。

 

12月25日、御遺族のために30人の大弁護団が結成され、第一審が始まった。

 

僕は即座に『賀川光夫先生の名誉回復を支援する神奈川県連絡会』を立ち上げた。

友人の考古学者安藤氏は、協力を惜しまず奔走してくれた。

たちまち考古学関係者70名の賛同者が支援金を預けてくださった。

僕はそれを御遺族関係の代表者S氏に送った。

第一審・第二審、そして最高裁まで週刊誌側は上告したが、

いづれも僕らは全面勝訴した。そこには3年の月日があっという間に流れ過ぎていた。

週刊誌側の記者は、賀川先生の報告書すら読んでいなかった。

賀川先生を死に陥れたHとOの二人の考古学者は生きている。僕はまだ許せない。

 

先生は奥様、御子息に遺書を残された。その奥様も永眠された。

先生、僕はしばらくお墓参りにも行っておりません。今年はお好きだった羊羹を持って伺います。あの温かい目で迎えてください。

〝咲く桜 まだ見ぬうちに 散る桜〟

先生が走り書きで僕らに残された辞世です。

いかに学徒出陣で宇佐海軍航空隊に配属されていたとしても、

その悔しさを遥か彼方に捨てるように、今年の桜を見事に咲かせてみせます。

雲弟先生、お書きになった墨絵で微笑ませてください。

日が変わって10日になってしまいました。今年は必ず伺います。桜咲く頃に…