雄略大王と乎獲居臣

倭の五王とは、5世紀代(413~478)に中国南朝の「宋」に遣使しして、『宋書』・及びその「夷蛮伝」に記されている讃(サン)・珍(チン)・済(セイ)・興(コウ)・武(ブ)の5人の倭王ことであることは前に述べました。

そのうち、武(ブ)のみが歴代大王の「雄略大王(大泊瀬幼武=オオハツセワカタケ)」であることが明らかになっています。

考古学上評価できる発見は〝さきたま古墳群〟の「稲荷山古墳」から出土した国宝の鉄剣です。

               双子塚古墳出土銀装大刀講演資料(苅谷2012)より

 

漢字だらけになりますが、金象嵌(きんぞうがん)文面と解読文を記しておきます。

 

 

(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ

 

(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタタケル(の)大王の寺(居館)、シキの宮(宮殿)に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」

 

以上が通常の解釈ですが、「吾左治天下」の〝吾〟は〝為〟に近い字であったとして、読みは「天下を治むるを佐(たす)けんが為に」とする見解もあります(宮崎市定氏)。

むづかしい問題ですが、『魏志倭人伝』に〝男弟左治國〟と言う文章があり、これとの比較検討も重要であろうと思っています。

 

さて、金象嵌された文字から確実に読み取れるのは下記に示した8名の人物です。 

➀上祖(カミツオヤ)意富比垝(オホヒコ)➡➁多加利足尼(タカリのスクネ)➡➂弖已加利獲居(テヨカリワケ)➃多加披次獲居(タカヒシワケ)➡➄多沙鬼獲居(タサキワケ)

半弖比(ハテヒ)➡➆加差披余(カサヒヨ)➡➇乎獲居臣(オワケのオミ)

〝世々為杖刀人首〟と言うことですから、

乎獲居臣の家系は〝代々武官の長(将軍職・近衛将軍?)〟であったことが解ります。

倭王武と称された雄略大王(オオハツセワカタケ)は、乎獲居臣(オワケのオミ)を出した豪族を軍事面での臣下として権力を握っていたことになります。

 

乎獲居臣(オワケのオミ)は中央の有力豪族

乎獲居臣は、杖刀人首(武官の長・将軍職・近衛将軍?)として「天下を左治」し、115文字を金象嵌した鉄剣を作らせています。僕は、就任記念の作剣であろうと考えています。この行為は、武蔵の一地方豪族にできることではなく、乎獲居臣が中央の有力豪族であったことが解ります。

乎獲居臣の下で懸命に奉仕し、武功・功績のあった稲荷山古墳の被葬者は、その百練の利刀を下賜されたと考えるのが自然です。職責を果たし武蔵の国に帰還した被葬者は、その後下賜された剣と共に稲荷山古墳に埋葬された訳です。

こうした例は千葉県稲荷台1号墳にも看られます。時期は5世紀中葉~後葉です。

銀象嵌で残りは悪いですが、(表)王賜□□敬□(安)。(裏)□□此延□□□□ 。

という象嵌文字が読みとれています。これもヤマト王権に下賜されたものと考えられています。王に関しては諸説ありますが、倭の五王の時代です。
 

そこで再び稲荷山古墳に戻ります。被葬者は下賜された百練の利刀と共に埋葬されていますが、その埋葬位置に問題があります。

稲荷山古墳の中央主体部(5世紀末葉)ではなく、横の礫郭に埋葬(6世紀第1四半期)されているのです。つまり、稲荷山古墳の築造時期ではなく、おそらく濃い血縁者として追送されていることが明らかです。稲荷山にはもう1つ埋葬主体があるともいわれていますが調査を待つしかありません。

 

「辛亥銘鉄剣」は、乎獲居臣が杖刀人首就任記念として自らが作刀を命じたであろうことは触れましたが、それが何歳の頃かは記録にありません。推測する方法は複数ありますが、よくご存じの日本を二分した初めての闘いを挙げておきます。

672年に勃発する「壬申の乱」を例にとると、〝全軍総司令官〟は19歳の「高市皇子」となっています(日本書紀)。これを信頼度の高いものすれば、辛亥の年(471年)に乎獲居臣が杖刀人首に就任したのは、20代前後と考えても差し支えないと思われます。

そして乎獲居臣の熟年30歳位の時に雄略大王は亡くなります(479年日本書紀)。

殯宮・葬送儀礼・埋葬が終わった後、乎獲居臣35~7歳の頃、稲荷山古墳の被葬者の功労と職責を称え、辛亥銘鉄剣下賜したとすると、彼が武蔵に帰還した後の生存期間を加味すれば、稲荷山古墳への埋葬時期6世紀第1四半期と整合性をもちます。

 

上祖(カミツオヤ)意富比垝(オホヒコ)の存在

そこで乎獲居臣の上祖意富比垝(オホヒコ)は何時頃の人物かを考えてみます。

『日本書紀』に〝四道将軍〟の一人「大彦命」として記されている人物がいます。

阿部臣(アベのオミ)・膳臣(カシワデのオミ)・阿閉臣(アへのオミ)など有力豪族の始祖です。実在性の高い大王「崇神帝」は、大彦命の甥にあたり19歳で皇太子となったと日本書紀にあります。

266年に西晋に遣使したのは崇神帝の可能性が高く(拙論『晋書』倭人来たりて方物を献ず)一説では崩御は278年であるとされています。同時期に叔父にあたる大彦命は軍事を掌る要職についていたことになります。

 

雄略帝の没年を書紀に従い479年とすると、約65年間に5人の大王が即位し平均在位年数は約13年となります。しかしそれはあくまでも大王に限って言えることであって、「大彦命」という要人にそのまま当てはまるわけではありません。何故なら大王の在位年数は、兄弟・親族・有力豪族などの謀反や策謀が絡み合って比較的短いからです。それに比べ要人の在職年数は長く、何らかの事件で失脚あるいは戦死でもしない限り何代かの大王に仕え継続的に補佐していくのが通例です。

例えば『百済記』にみえる葛城沙至比跪(襲津彦)は382年には既に将軍として朝鮮半島に出向き、室宮山古墳の被葬者であれば要職年数は約40年となります。

大伴金村は507年には既に大連となっており、継体・安閑・宣化・欽明と4代の大王に仕え、504年の朝鮮半島問題で辞任するまで少なくとも33年間は要職に就いています。また蘇我馬子は572年に大臣となり、敏達から推古まで4代に仕え権威を振るい、626年に没するまで44年間要職にありました。藤原鎌足の24年も同様です。

他に、物部麁鹿火(29年)・巨勢男人(約30年)など類例は多くあります。

 

それでは今一度「辛亥銘鉄剣」に記された8名から大彦命(上祖意富比垝(オホヒコ))

の要職時期を推定してみましょう。

上に記した要人の平均年数を看てみますと、30~33年となります。

「辛亥銘鉄剣」を作刀させた乎獲居臣は、雄略帝崩御まで約17年間要職についていますが、次の大王即位から本格的体制作りまでは、杖刀人首(武官の長・将軍職)として軍事力の維持に努めていたと考えられ、20数年は現職を続けたのではないかと思われます。

明確な数値は無理ですが、平均在職年数の平均を25年とし、乎獲居臣から大彦命の在職年代を推定してみると7代で約175年間となります。

辛亥の年(471年)を基準に逆算すると、大彦命の在職年代は270年頃~296年頃となります。

この年代は3世紀末であり、大きく浮上する前方後円墳があります。南九州の大型墳の墳形に影響を与えたと考えられる桜井外山茶臼山古墳です。

 桜井外山茶臼山古墳こそ上祖意富比垝(オホヒコ)の墓なのです。                        

                  昭和29年航空写真 桜井外山茶臼山古墳

 

                     大和前方後円墳集成2004

 

雄略大王の宮殿

5世紀から6世紀に至る大王の宮殿の調査が、1983(昭和58)から始まりもう18次を越えています。考古学的に証明され始めたのは「脇本遺跡」です。

このエリアからは、平安時代の興福寺土地台帳に「シキ」の地名が登場しています。
稲荷山古墳出土の「辛亥銘鉄剣」に、

ワカタタケル(の)大王の寺(居館)、シキの宮(宮殿)に在る時~ 

巨大な掘り方から柱列、庭園を思わせる石葺き涯の大溝、相当広いエリアを占める。

ほぼ間違いなく雄略大王の「初瀬朝倉宮」です。


中途半端な終わり方ですが、きょうはこの辺で失礼します。