牡蠣の味噌汁の残りを片付ける意味で御飯にした。ナムルを載せてビビンバ丼に。

白菜キムチ・酢醤油にカツオ節の春菊のお浸し・南予のじゃこ天。

これは美味いと自画自賛。
         

おやつは、山梨の友の枯露柿とアンディーの干し柿。

紅茶じゃなくてお茶だったなあ、ごめん。

        

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古代山陽道の驛

昔、NHKの番組で平城宮~大宰府まで、山陽道・西海道の古代道路の取材をした事がある。この時、山陽道最大の〝賀古驛(かこのうまや)〟の表門の調査を視察できたのは幸運だった。また、門柱の礎石〝唐居敷(からいじき)〟を発見した記憶も鮮明な記憶として残っている。この驛なら伝馬(厩馬)50頭以上は確実にいた筈だ。

厩は30里(16km)ごとに設置された記録(延喜式・播磨国風土記等)がある。

この取材で、直線に延びる飛鳥・奈良時代の古代道の存在を初めて知ったことは有意義だった。

                    賀古驛:兵庫県立博物館

              

 

安中市の古代直道 

群馬では安中市の「東上秋間遺跡」の環状列石調査。富岡市の「中高瀬観音山遺跡」の長期調査に参加したことはあったが、道路状遺構の視察調査は初めてだった。安中市教委の懐かしい友も訪ねて来てくれた。

 

安中市西横野地区では2008年(平成20)から、東向原・人見枝谷津・人見東向原・人見西向原等の遺跡の大々的調査が行われ、2014年(平成26)に報告書が刊行された。

各区ごとの調査の結果を総合すると、2.5kmの古代直道が確認されている。

隣市の富岡市では、人見西向原B区(安中市)に続く直動が、上高田稲葉上遺跡で検出されている。

 

下の写真で人物が立っている部分が直動の側溝で、幅50~60cm・道路幅は約10mである。           

            西横野東部地区遺跡群口絵 2014年安中市教育委員会

         

           

             西横野東部地区遺跡群口絵 2014年安中市教育委員会

         

 

この直道は、東山道から離れた位置にある直道だが、地図で見ると北西延長線上に東山道の「坂本厩」推定地がある。執筆者は、古代東山道は旧中山道沿いと推定されており、東山道から分岐して延びる直道で、南東方向は古代甘楽郡境で途切れるが、

〝伝路〟であった可能性が高いとしている。伝路とは郡と郡を結ぶ道のことである。

その蓋然性は高いと思う。

 

この直道は、人見西中原遺跡では8世紀初頭に側溝の埋没。人見三本松遺跡では同時期の住居址による側溝の破壊。人見大谷津遺跡では先に述べたように甘楽郡境で道が消滅している。

こういう例からして、伝路としての初期機能は、7世紀後半~8世紀初頭という短期間で終わり、「牧」の目的と関連する道へと姿を変えたのではなかろうか。

この後9世紀代まで、広大な牧と掘立柱建物群・長屋状竪穴遺構・大型建物・調教溝

等の隆盛期となっている。

 

2013年(平成25)には、三本木Ⅱ遺跡で主軸の異なる伝路が新たに造られていることが判明した。しかしながら直道の本来機能は11世紀代で終焉したと考えられる。

          

         西横野東部地区遺跡道路状遺構平面図 2014年安中市教育委員会

 

下図の赤茶直線が伝路としての直道、緑は区画溝・方形区画溝、黄色は集落・住居。

             西横野東部地区遺跡全体図 2013年安中市教育委員会

【信濃路は 今の墾道 刈株に足踏ましなむ 沓はけわが背】  万葉

 (しなのじは いまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ)

※信濃路は、新しく開墾したばかりの道、切り株を足で踏まないように、

  靴を履いてください、我が夫よ。

古代道、殊に東山道を造る時、働く男たちには、この歌がピッタリである。