やはり夜は冷える。供えたものを載せておこう。

朝昼食のリンゴパイ。イチゴ(章姫)。夕食はトンブリサラダ・沢庵・大隅ごぼうサラダ(新ゴボウ)・大根,里芋,ジャガイモの煮物。

        

 

明日大晦日も、大根,里芋,ジャガイモの煮物だが、肉を加えよう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

恩師の学生時代

僕の考古学を支えてくださったのは「賀川光夫先生」てす。

栃木県那須烏山市のお生まれで、日大文学部文学科国史学を専攻され、在学中の昭和19年(1944)に学徒出陣で宇佐海軍航空隊に配属されました。

死を覚悟で2度、九七式艦上攻撃機にて出撃されたそうですが、エンジン不調で直ぐ引き返されたと伺っています。

原爆投下直後の広島への偵察を行なったのが最後の飛行で、

間もなく終戦を迎えられました。

                        

首里城下の円覚寺

昭和33年(1958)、賀川先生の別府大学学生部長の時です。

東大の八幡一郎先生・九大の金関丈夫先生の依頼を受けて、

先生は那覇に降り立たれました。戦災で無惨になっていることを知りながら、沖縄本島の貝塚。日本の禅寺の中でも、もっとも素晴らしい庭園をもった首里城下の円覚寺を重点に調査するためでした。

アメリカ軍政下のなか、宜野湾市大山貝塚の発掘調査は、政府の文化財保護委員会の仕事として順調だったそうです。

 

問題は、新設の琉球大学グラウンド建設のため、円覚寺跡が破壊されつつあったことです。

ここから賀川先生の悪戦苦闘が始まりました。アメリカ軍情報部に強く抗議して、当時の米国民政府長官のブース中将との面会に漕ぎつけることが出来たそうです。沖縄の統治権を握っているのはブース中将です。

星条旗が立てられた長官の部屋に通された時は、

帰れなくてもいい、と覚悟されたそうです。賀川先生は次のように厳しく言ったそうです。

「アメリカ軍は沖縄を攻撃し、この島の歴史と文化を破壊した。

 そしていま、日本人、特に琉球の人々の誇りとする首里城下

 円覚寺の庭園を破壊しつつある。それが大学のグラウンドの

 ためであるとしても、アメリカの精神に反するもので、許しては

 いけない」

賀川先生35歳の時です。僕が考古学を始めた歳と同じです。

僕は先生に学んで良かったとつくづく実感しました。その姿勢は兄イにもオーバーラップします。

長官は、威圧するように次のように言ったそうです。

「琉球列島では、アメリカを代表する私の考えで全て決定される。

 あなたの言動は許しがたいが、内容を検討して後日通知する」

先生は覚悟しているものの不安を覚えたとおっしゃっていました。

 

翌日再び呼び出され、部屋の荷物をきちんと整理して伺ったそうです。ブース中将は、

本国の学者に、あなたの意見を電話によってただした。

  返答はあなたと同じであった。星条旗に誓って円覚寺跡の

  保存に努力しよう。しかし、計画は実施されつつあるので、       全面保存は難しい」

こうして破壊されつつあった円覚寺総門・放生池・そこに架かる

石橋(弁天橋)の遺構は保存された訳です。

 

放生池の山門側の親柱に

大明弘治戊午歳春正月吉日建立長史梁能及通事陳義督造〟と記されており弘治11年(1498)につくられたことが判ります。

賀川先生が保存交渉したからこそ、築造年代が明らかになっている建物なのです。

いまは総門も復元され、多くの人々が訪れています。

 

賀川先生。年に一度になりましたが、来年また会いに行きます。

31日になってしまいました。良いお年をお迎えください。