ここのところ朝昼食を取っていない。夕食は、
毛蟹・昨日の大根煮つけ・明日葉とごぼうサラダだ。お前は蟹の足しか食べないけど、大きな毛蟹だから多ければ残していいよ。
暫く「ヤマト王権と古代日向」の続きを書いていない。中途半端のままだから、「ヤマト王権と古代日向④」の先を綴ろう。
◎ヤマト王権と古代日向⑤ 倭の五王の時代
1、九州の大型古墳
120m以上の大型墳を挙げると、下記の前方後円墳12基となる。
①福岡県苅田町(豊前)➡石塚山古墳(130m)3C終末
②福岡県苅田町(豊前)➡御所山古墳(119~120m)5C後半
③福岡県八女市➡岩戸山古墳(138m)6C前葉
④熊本県氷川町➡大野窟古墳(122.8m)6C中葉~後半
⑤宮崎県西都市➡男狭穂塚古墳(176m)4C終末
⑥宮崎県西都市➡女狭穂塚古墳(176m)5C初頭
⑦宮崎県宮崎市➡生目1号墳(136m)3C末
⑧宮崎県宮崎市➡生目3号墳(143m)4C初頭
⑨宮崎県高鍋町➡持田1号墳(120m)4C中葉
⑩宮崎県延岡市➡菅原神社古墳(110m、推定140m)5C前半?
⑪鹿児島県串良町➡唐仁大塚古墳(154m)4C末
⑫鹿児島県大崎町➡横瀬古墳(132~136m)5C前半
参:大分県杵築市(豊後)➡小熊山古墳(116.5m)3C末~4C初頭
参:大分県大分市(豊後)➡亀塚古墳(116m)4C末~5C初頭
上表、東九州の周防灘に面する➀石塚山古墳②御所山古墳は、弥生段階から西部瀬戸内文化圏であり、早くからヤマト王権との連帯は強い。参:として挙げた2古墳(小熊山古墳・亀塚古墳)と共に、周防灘から豊予海峡一帯の「制海権」を握る「海人族」との関係の強い「臨海古墳」だ。九州の大型古墳ではあるが、西部瀬戸の色合いが濃いので、九州圏から外す。
残る➂~⑫の10基の大型墳の内、8基までが古代日向(南九州)の広域連合体で占められている。
しかも九州最大の古墳は、古代日向(南九州)の➄男狭穂塚古墳⑥女狭穂塚古墳で、3番目が⑪唐仁大塚古墳、4番目⑧生目3号と続く。そして、北部九州の③岩戸山古墳が5番目となる。
岩戸山古墳の墳長は、古代日向(南九州)の⑦生目1号墳や⑫横瀬古墳と大差はない。
「倭の五王」の時代とは、5C前半から末葉までの凡そ80年間だ。つまり➂岩戸山古墳(6C前葉)、➃大野窟古墳(6C中葉~後半)の2古墳は、倭の五王の時代ではなく、その後6C前半に大王位に就いた「継体大王」の治世以降に築造されたものだ。
必然的に倭の五王の時代から除かれることになる。
となると、倭の五王の時代の大型古墳は⑤⑥⑩⑪⑫であり、
全て古代日向(南九州)だけが残る。さらに厳選して、⑩の菅原神社古墳は大型墳だと思われるが、現時点では墳丘長の誤差が大き過ぎ、定かではないので除外する。
確定する「倭の五王の時代」の大型墳は、
☆宮崎県西都原古墳群の➄男狭穂塚古墳(176m)4C終末
☆同県同古墳群の⑥女狭穂塚古墳(176m)5C初頭
☆鹿児島県串良町唐仁古墳群の⑪唐仁大塚古墳(154m)4C末
☆鹿児島県大西町の⑫横瀬古墳(132~136m)5C前半
となり、4基とも全て、その築造時期では九州最大の古墳となる。
2、倭の五王と中国南北朝時代
「倭の五王」とは、主に中国南朝の『宋書』倭国伝に記載されている5人の倭王のことだ。そこには漢字で記された倭の大王5人が登場する。讃(サン)・珍(チン)・済(セイ)・興(コウ)・武(ブ)の5人だ。
統合体倭国の盟主(卑弥呼)が遣使したのは「魏」だが、その魏が滅び「西晋」が建国される(265年)。その後、北方民族の侵入が激化し、五胡十六国時代を迎える。
中国の北半は、騎馬民族の5族が建国した16の国(五胡十六国)が激しく競い合い戦乱が続いた。「西晋」は滅ぼされる(316)。
漢民族は翌年(317)に国都を東南に移し再興して「東晋」となる。
一方、北の華北は鮮卑族により統一され「北魏」が建国された。こうして中国大陸は、南の漢民族・北の鮮卑族に2分される。
それが中国の〝南北朝時代〟だ。普通、魏晋南北朝という。
「倭の五王」が遣使したのは南朝で、「東晋(317~419)」に始まり次の「宋(420~479)」で遣使を終える(打ち切る)。
南朝はその後、「斉(479~502)」「梁(502~557)」「陳(557~589)」と王朝が代替わりし、589年に「隋」が〝南北朝を統一〟するまで続いた。
下地図2点『百舌鳥・古市古墳群』 同成社 一瀬和夫 2016
初めて倭王の遣使の記事が登場するのは、
「義熈(ギク又はギキ)9年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」
に始まる。しかし、この記述には倭王名が記されていない。
また、激しく敵対する高句麗と同時に貢献する可能性は低い、
という指摘もある。だが僕は、強大な中国王朝より官位・称号を授かるためには、「共同入貢」は有り得ると考えている。謂わば、冊封体制下にある国としては、敵国の前でより高い位を拝受することは、優位性を誇示する最大の場となり得るからだ。
後々編纂された『梁書』倭伝には「晋(東晋)の時、倭王賛有り」
とあるので、初めての朝貢は倭王「讚」であったことが判る。
しかしながら「讃」には官位・称号の記述はない。
「讃」は東晋への遣使(413)。宋の高祖の永初2年(421)の遣使。
太祖の元嘉2年(425)の遣使(讚、また司馬曹達を遣わして表を奉りて方物を献ず)。更に宋書は、元嘉7(430)の倭国王の遣使を記しているが、これも「讃」と考えてよい。
「讃」は、東晋への遣使(413)を含め、合わせて4回の遣使朝貢を南朝に行っている。それでも官位、称号の記述はない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宋」は、「北魏」との対立で、遼東半島と大陸東北部、そして朝鮮半島の半分以上を占める「高句麗」を重要視し、「征東大将軍」という高位を授けている。高句麗は「北魏」にも遣使し、将軍号を拝受している。自国を守るための[二股外交]だ。これは三国時代の「公孫氏(189~238)」の外交と同じである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて「讃」に話を戻すと、次のような記事がある。
421年の遣使では、「倭讚万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」
除授を賜うとは、位をさずけるというこなので、そこから推定して、高句麗よりかなり下位だが第3グループの〝安東将軍倭王讃〟という称号を与えられたと考えられる。
『宋書』には「本紀」3回、「倭国伝」7回の倭国からの遣使の記録が残されている。「讃」に紙面を費やしたので、
続く「珍」「済」「興」「武」の4倭王のことは、必要最低限のことを述べておく。
「讃」に続く「倭王珍(倭王讃没し弟珍立つ)」は、
「珍」は、宋の太祖の時(438)遣使して、「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍」の官位・称号を求めた。
「珍」の官位要請に対して、宋の太祖は、「使持節・都督」以下のことを認めず、「安東将軍」とした。
「使持節(しじせつ)」とは、占領地の軍政官・「都督(ととく)」とは、軍の総括官の爵位で、それ以下の6国諸軍事とは、6国の軍事権を掌握していると理解して頂ければ良い。
つまり「珍」は、朝鮮半島の南半(高句麗との国境)まで軍政をしき、軍隊も掌握しているので、それに見合う官位を要請したことになる。しかし「珍」の要請は大きく却下されたことになる。
続いて元嘉20年(443)に、「済」が朝貢して「珍」同様の官位・称号を要請した。しかし「安東将軍」の称号のみであった。
「済」は、元嘉28年(451)に再度遣使し、同様の要請をする。ここで
初めて「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が認められたが、称号は「安東将軍」のままだった。
しかし同年7月に「済」は「安東大将軍」となる(宋書本紀文帝紀)。
次の「興」は、世祖の大明6年(462)朝貢する。
(済死す。世子興、使いを遣わして貢献す)とあるので、
「興」は「済」の跡継ぎ(世子)とみられる。
授けられた将軍号は「安東将軍」で、「済」の「安東大将軍」より格下となり、使持節・都督以下諸軍事も不明となっている。
昇明1年(477)に、倭国からの遣使が記されている。おそら「興」のものと思われるが記述はない。
次に五王の最後の人物「武」が登場する。
遣使は昇明2年(478)で、「興」と思われる遣使の翌年である。
「興死して弟武立つ。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す」
要請する爵位は、どの倭王も「使持節・都督~諸軍事~倭国王」でほぼ同じだが、前代の「興」は格下げされている。
「武」は「興」の弟で、父は「済」だ。倭王は興から武に速やかに継承されているように見えるが、何処かキナ臭い観がある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
僕には「武」が『古事記』の倭建命の少年時代に重なってみえる。
これはあくまでも想像の域を出ないが、
兄の大碓命(オオウスノミコト)を「興」、
弟の小碓命(ヲウスノミコト=倭建命)を「武」に比定すると、
「興」は「武」によって殺害されたことになる。
父「済」の王位継承をめぐって争いがあったとも思えるのだ。
宋に遣使した兄「興」は、父「済」がやっと手に入れた官位・称号を与えられず、格下げとなっている。ところが弟の「武」は、遣使した時から、上記赤色で示したように、父「済」を越える大きな官位・称号を要求している。
しかも、「武」の上表文は、宋に有無を言わせる余地のない堂々たるものだ。ここに勇猛果敢で聡明な「武」の人格が現れている。
そこからも、「興」は「武」に暗殺されたという想像を逞しくさせる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「武」の堂々たる上表文の一部だが少し記しておく。(宋書倭国伝)
『~昔より祖禰(そでい)、躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること、六十六国。渡りて海北を平ぐること、九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。~』
(~古より先祖代々、国王は自ら甲冑(よろいかぶと)を着けて先頭に立ち、山野を越え川を渡り、敵を制圧し国作りに徹して暇すらなかった。東は毛人(けぬ)を制圧すること55国。西は衆夷(古代日向)を服する(言葉で従える)こと66国、海を渡り朝鮮半島を制圧すること95国。中国の威光は、倭国を通じて各地にも及ぶようになった。~)-苅谷-
この上表文の終わりに、高句麗を成敗する故、宋王朝の力を得て強敵を倒したいと述べている。しかし宋はそれに反応せず、「武」は、使持節以下全てと百済を除く6国の諸軍事を認められ、
「安東大将軍倭王武」に除授された。
国力が下降気味の宋は、北魏との対立の中で、百済・高句麗を滅ぼす訳にはいかなかったのだ。
「武」は「宋」の弱体化を見抜いたと思われ、この昇明2年(478)の遣使1回だけで朝貢を打ち切っている。
その翌年479年に、南朝は「宋」から「斉(479~502)」に代わり、倭王「武」は「鎮東大将軍」に進号される。
更に502年、「斉」から「梁(502~557)」に代わり、倭王「武」は、
502年に「梁」より「征東大将軍」へと進号されている。
しかしこれらは、朝貢を打ち切った「武」とは無関係で、王朝創立時の祝賀的任官に他ならない。
さきたま古墳群の稲荷山古墳から発見された国宝「辛亥銘鉄剣」から、「武」は(大泊瀬幼武大王=オオハツセワカタケ大王)で、「雄略大王」であることに異論はない。「辛亥年」とは471年で、
この年「武」は既にシキの宮に居館を構えている。
兄の「興」は462年に宋に朝貢し各を下げられている。477年にも朝貢しているが爵号の記録すら無い。翌478年には弟「武」が朝貢し高位を授かっている。
「辛亥年(471)」に、既にシキの宮に居館を構え「大王」であった弟の「武」、これを考えた時、兄弟の対立を予測することが可能で、兄の「興」は、弟「武」の勢いに呑まれていたと考えられるのだ。
次回は、「武」の宮跡から「ヤマト王権と古代日向➃」で述べた、南九州と繋がる1基の古墳から、古代日向の大型古墳の被葬者を考えてみたい。