同じテーマをこんなに続けたのは初めてだ。

過去に書いた幾つかの断片を、引っ張り出しては補足していく。

この楽しさは、脳に刻まれる栄養のシワ。独り者には良い刺激だ。

 

さて、食事から。朝はパンではなく、かぶら寿司になった。

おやつはドーナツ。

        

夕食はかぶら寿司と納豆、家内も僕も大粒が好きだ。

夜のおやつは練乳をかけたトチオトメ。

       

 

◎ヤマト王権と古代日向➃ 1基の古墳

1、古代日向の盟主墳の形 

前回③で古代日向の盟主の墳墓であろうと思われる前方後円墳を挙げ、その変遷を推定してみた。

宮崎平野南部「生目古墳群1・3・22号墳」➡鹿児島県東串良町「唐仁大塚古墳」➡宮崎県西都市「男狭穂塚・女狭穂塚古墳」➡

鹿児島県大崎町「横瀬古墳」の順だ。

大隅に最初に築造された肝属郡肝付町の「塚崎10号墳」、それに続く3基は、その地域の首長の系列だと思う。

 

それらの前方後円墳の中には、唐仁大塚古墳のように前方部前面が開かない墳形のものが複数存在する。

それは3C末~4C中葉の、ヤマト王権中心部にある2つの大王級墳墓と密接な繋がりがあることを示唆している。

桜井市にある「外山(トビ)茶臼山古墳」「メスリ山古墳」だ。

 

「外山茶臼山古墳」は、3C末に築造された前方後円墳で、

墳長207m・後円部径110m・後円部高約23m・全長部幅約61m・

前方部高約13mの規模をもっている。

丁度、「纒向遺跡」第163次調査中だったので、視察に行ったが、辰砂(水銀朱)で赤く染まった石室の迫力に息を飲むばかりだった。

銅鏡片81面分強が出土しており、その多さは類例がない。

前方部前面は下図左のようにほとんど開かない。

外山茶臼山古墳こそ、前方部前面の開かない大王級墳墓の原初だ。

この古墳の2㎞南西に、後続する4C中葉の墳長224mの「メスリ山古墳」がある。下図右。

断層により前方部くびれ部付近が切断されているが、この古墳も前方部が開かない。豊富な副葬品も出土している。

         

             大和前方後円墳集成 橿原考古学研究所2001

 

3C後半~4C中葉のヤマト王権中心部には、この2基以外には無く、その後は築造されていない。

4C末には、中心が大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市方面に移り、「百舌鳥・古市古墳群」を形成する。そして前方部前面が大きく開く墳形に変化していく。

しかし古代日向(南九州)では、少数ではあるが前方部をやや長くした外山茶臼山古墳タイプの墳形が続いて築造されていく。

それは、

➊「外山茶臼山古墳」に眠る人物の時、古代日向(南九州)全域が「前方後円墳体制」下に組み込まれた。

❷対立していた各集団が、ヤマト王権に連帯することで、志布志湾から日向灘にかけての「広域首長連合」が、初めて形成された。

以上の2つのことに深く関係している。

古代日向(南九州)の首長層にとって、安定した「広域首長連合」をもたらしたのは、外山茶臼山古墳に眠る人物に他ならないからだとと思う。

 

その人物と古代日向(南九州)の絆を現わすために、外山茶臼山古墳タイプの盟主墳が築造され、その思いが根強く残って首長墓築造に反映され続けたからではなかろうか。西都原61号(4C前半)などは、主長墓として好例であろう。

また、ここに古代日向(南九州)人の気質も表れている。

      

       生目22号墳(盟主)            唐仁大塚古墳(盟主)

     「前期古墳の再検討」九州前方後円墳研究会2006 (筆者加筆)

 

2、周溝の形

4C後半~5C全般にかけて、ヤマト王権中心部の古墳周溝は、

平面釣り鐘状の「盾形周溝」をもち、水を湛える「周濠」となる。

下図は、巨大前方後円墳の「誉田御廟山古墳」「大仙陵古墳」だ。

誉田御廟山古墳は古市古墳群、大仙陵古墳は百舌鳥古墳群にある。いずれも世界文化遺産に登録されており、「盾形周溝」が3重に巡らされている。

           

 応神陵「誉田御廟山古墳」5C前半425m        仁徳陵「大仙陵古墳」5C中葉486m   

             近つ飛鳥博物館47号2009より

 

      

        古市古墳群                  百舌鳥古墳群 

               近つ飛鳥博物館55号2009より

 

両古墳群の大王墓と、それに準ずる高位人物の前方後円墳は、全てが「盾形周溝」だが、古代日向(南九州)の盟主墳には異なるものがある。 

女狭穂塚古墳(宮崎県西都市)は、墳丘長176mで盾形周溝。
男狭穂塚古墳(同市)は帆立貝式古墳で墳丘長176mで盾形周溝

ところが、鹿児島県大崎町所在の、5C前半の盟主墳「横瀬古墳」は、下図のように2重周溝をもちながら盾形周溝ではない。

       

ここに被葬者(埋葬されている人)の階層差をみようとする見解が

かなりあるが、むしろ、古墳築造技術集団の系統が異なるからではないだろうか。

それは、前項➀で記した墳形の継承と同様の意志が働いているようにみえる。それはまた、古代日向(南九州)人の気質でもあろう。

 

ヤマト王権の一部の主要古墳の周溝の形を示し、一考してみる。

        

    石名塚古墳3C末4C初111m          大安寺杉山古墳5C中葉154m

 

           

 渋谷向山古墳(景行陵)4C中葉300m       宝来山古墳(垂仁陵)5C初頭230m

         4期ともに大和前方後円墳集成 橿原考古学研究所2001

 

上記4基の大王墓及びそれに準ずる高位人物の古墳は、

盾形周溝」ではない。この4基だけを参考にしても、周溝の形の違いだけで階層差を指摘するのは誤りではないか。同時期に盾形周溝は多くなるが、上記の4古墳は一段階前の周溝の形を継承しており、築造技術集団の違いを考えた方が良いのではなかろうか。

やがてこのタイプの周溝の形は消えていく。

 

次回は「倭の五王」と古代日向について記してみる。