家内の月命日。アイツの大々好物「かぶら寿司」が富山から、

オレンジピールが梶ヶ谷から届いた。板倉さん、磯辺さん、

有難う御座いました。大喜びしている家内の顔、想像してください。

夕飯は既に決めているので、かぶら寿司は明日に回そう。

     朝昼食、ハムサンド・ごぼうサラダ。

  

            おやつ練乳にいちご。

           

        夕食、帆立貝柱のバター焼き・ビビンバ丼・ナムル。

        きくらげと紫蘇の佃煮・ごぼうサラダ・   

        

                 夜のおやつオレンジピール

           

 

◎ヤマト王権と古代日向③、志布志湾東岸から北へ

前回、志布志湾東岸域の三古墳群成立過程と、それぞれの特徴を述べた。そこで明らかになったのは、下記の事柄だ。

(1)対立していた各集団が、ヤマト王権下で首長連合を形成した。

(2)ヤマト王権による葬送儀礼の斉一化。

(3)肝属平野周辺地域の首長層が「前方後円墳体制」の傘下に。

(4)初めて前方後円墳が築造されたのは「塚崎古墳群」である。

(5)古墳群造営は「唐仁古墳群」・「岡崎古墳群」へと継承された。

(6)「唐仁古墳群」は大首長系列、「岡崎古墳群」はその下位の

   中小首長層の古墳群として造営された蓋然性が高い。

纏めると大体以上のような事が明らかになった

 

再度、古墳編年表を挙げておく。

塚崎11号墳は、九州全体の中でも最古級の前方後円墳だ。

この段階から、定型化した前方後円墳は急速に南九州に広がり、宮崎県川南古墳群10号、西都原古墳群91・1・88・81号、
山之坊30号、生目古墳群1・3号墳等と、3世紀後半代の古墳が次々と築造され、「前方後円墳体制」は4・5・6Cへと連続していく。

つまり、宮崎県の小丸川流域・一ッ瀬川流域・大淀川流域、そして鹿児島県肝属川中下流域・志布志湾臨海地帯には、複数の有力政治集団が誕生したことを裏付けている。
 

ヤマト王権は、統合体倭国以前の弥生中期~後期初頭にかけて、

北部九州勢力を牽制する意味で、南九州の集団と密接な繋がりを築く必要があった。(ブログ、ヤマト王権と古代日向➀)参照。

そして、5C代に入る「横瀬古墳」の時代には、優れた外洋航海術を有する海洋民(海人)である隼人族を、最も重要視した。

 

○横瀬古墳

大崎町「横瀬古墳(130m)」は、平地に立地する古墳で、

ヤマト王権との繋がりが強く表れている。

編年表では5C後半築造となっているが、これは見直すべきだ。

横瀬古墳からの出土埴輪は、大阪府羽曳野市の5世紀前半築造の墓山古墳(225m)出土のものとの共通性をもっている。

しかも「窖窯焼成」で、近畿地方の埴輪製作技術の導入が考えら、同町の神領10号墳(54m)も同時期の築造で、ここからも窖窯焼成の埴輪が出土している。窖窯焼成の埴輪は、この地域ではこの2古墳意外にない。

僕は「横瀬古墳」「神領10号墳」ともに5C前半築造とする。
 

この古墳には周溝があり、その外側に幅の広い周堤帯を廻らせ、更にその外側に狭い周溝が巡らされていることが確認された。

やや偏倚的だが「二重周溝」をもつ前方後円墳だ。

 

 上下とも、大崎町教育委員会 内村憲和氏 平成23年度広報おおさき11号

 

 

二重周溝をもつ前方後円墳は限られ、大王墓もしくはそれに準ずる高位の人物、地方における同盟の中心人物ということになる。

つまり「盟主墳」だ。

東串良町にある4C末~5C初頭築造の唐仁大塚古墳(154m)は、

鹿児島県で最大、九州では第3位の規模を誇るが一重の周濠だ。

しかしこの時期(4C末~5C初頭)の日向(南九州)の「盟主墳」であろう。

西都原古墳群の「女狭穂塚」「男狭穂塚」176mが九州最大で、

二重周溝をもつ。しかし陵墓参考地で立ち入り禁止だ。

 

※盟主の連係

この5C前半段階の日向(南九州)の盟主は、西都原の「女狭穂塚」「男狭穂塚」で、次の盟主が「横瀬古墳」であろう。

日向(南九州)全体をみると、初期の盟主は宮崎市大淀川から宮崎平野域の生目古墳群次が鹿児島県東串良町の唐仁古墳群

次が宮崎県西都市の一ツ瀬川域の西都原古墳群で、近くにある茶臼原古墳群・祇園原古墳群は、西都原の盟主を支える高官の古墳群であろう。そして鹿児島県大崎町の横瀬古墳が、盟主墳として二重周溝をもつ

日向(南九州)の盟主は、このように4地域のなかから交互に選ばれる決め事があったのではないだろうか。古墳の規模と広域連合体が、それをものがたっている。

     

         生目古墳群 近つ飛鳥博物館図録58号2012

 

          西都原古墳群 近つ飛鳥博物館図録58号2012

 

男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳近つ飛鳥博物館図録58号2012

           (上・帆立貝形古墳) (下・前方後円墳)                      

   

 

○盾持ち人埴輪

横瀬古墳とおなじ大崎町に、神領10号墳(54m)ある。

横瀬古墳と同時期の5C前半の古墳だが、地下式横穴を伴っており、盟主横瀬古墳の被葬者に仕える高官か将軍の可能性もある。ここから窖窯焼成の盾持ち人埴輪が出土している。

盾持ち人埴輪は円筒埴輪のように並べられることはなく、単体で

墳丘のくびれ部や前方部などに、外向きに立てられていることがほとんどだ。「辟邪(魔除け)」の意味があり、古墳に邪気が入らないように護っている。

最古のものは、奈良県桜井市の茅原大墓古墳のもので、僕も関係したので意味がよく解った。

写真の後ろの古墳が茅原大墓だ。

 

   神陵10号墳 近つ飛鳥博物館資料58        桜井市茅原大墓出土(筆者撮影)

         
神領10号墳の盾持ち人埴輪は、リアルで歯を差し込む穴があり、

眉庇付冑を被ってどことなく不気味な表情だ。

一方、桜井市茅原大墓出土の最古の盾持ち人埴輪は、薄気味悪く、菅笠を被っているように見える。僕は〝案山子(ソホド)〟の原型をここにみている。

 

次回は、海外情勢とヤマト王権との関係に、日向(南九州)の人がどう関わったかを視てゆく。〝倭の五王〟の時代だ。

それから隼人と呼ばれるようになったのはいつごろからか、

反乱はなぜ起きたか、古代日向の3分割された理由は、などを纏めてゆく。⑤回位になるだろう。