タナバタは、
➊祖霊祭(魂祭り・霊祭り)
❷農耕祭祀
❸棚機津女(たなばたつめ)
❹星祭り(牽牛・織女伝説)
❺乞巧奠(きこうてん・きっこうてん)
❻盆
に由来します。
という訳で、チョッと話が長くなりますが、豆知識のためだと思ってご勘弁を。
1996年6月24日『魂を考える』という講演をした事があります。
この時〝タナバタの正体〟の話で会場が大いに沸きました。
先ず、❹星祭り・❺乞巧奠の合体の話から致しましょう。
『5節句(節供)』という、季節の節目になる大事な日があります。
唐の時代の暦で決められたものですが、
この日は「邪気払い(避邪)・無病息災」の意味で神に供物を捧げる大切な行事を行います。
元旦(1月1日)は、最初に陽数(奇数=縁起の良い数)が並びますが、年の初めの特別な日なので別格と考えてください。
そこで正月の節句は7日になります。
①人日(じんじつ・1月7日)
②上巳(じょうし・3月3日)
③端午(たんご・5月5日)
➃七夕(しちせき・7月7日)
⑤重陽(ちょうよう・9月9日)
この5節句のひとつが『七夕(しちせき)』です。
星祭り(天の川・牽牛星・織女星)は、漢の時代からあったことが
『文選(もんぜん)』という書物に書かれていますが、
7月7日に行われたかは不明です。
前漢の逸話や出来事を記したある書物(晋の時代編纂)には、
7月7日に采女(うねめ)が、7つの針に糸を通し、裁縫などの上達を祈る『乞巧奠』の風習が記されています。
しかし、織女星のことは触れられていません。
さあ、いよいよ合体の時ですぞ!。
中国の南北朝時代(北魏⇔宋。439~589)のことです。
『荊楚歳時記(けいそさいじき)』という書物に、
7月7日は「牽牛」と「織女」が会う夜で、女性たちが彩も鮮やかな糸を7本の針に通し、供物を庭に並べて裁縫・手芸の上達を、
星に祈り捧げた。という風なことが記されています。
ここで初めて、❹星祭り(牽牛・織女伝説)と❺乞巧奠(きこうてん)が一体に捉えられています。
でも、なんで牽牛と織女は年に1度だけしか会えないんでしょう?
「牽牛・織女伝説」を語れば、更に長くなるのでザッと触れておきましょう。
〝牽牛は農耕、織女は機織りで一生懸命働いていました。
ある時、2人は恋に落ちたのです。さあ、何も手に着かない。
恋の炎は燃え上がり、2人は全く仕事をしなくなったんです。
神様は怒りました。そして2人を引き離したんです。
神様も残酷ですよねえ、きっと燃え上がるような恋なんて経験し
たことないんでしょうね。
2人は天の川を挟んで遠くに離されてしまいました。
神様は、あまりにも哀しむ2人を見て、じゃあ1年に1回だけ、
天の川を渡って会うことを許してやろう、と考えました〟
まッ、これが「牽牛・織女伝説」のあらましです。
現在でも『冷泉家』では、旧暦7月7日の夕方から、宮中で古くから行われていた「乞巧奠(きこうてん)」の行事を行っています。
その一つに、
牽牛(彦星)と織女(織姫星)へのお供え物を前に、天の川に見立てた白い布を敷き、それを挟んで、男女が和歌を送り合う場面があります。
公開されていますので、コロナが終息したらご覧になったら?
「読み疲れましたか?、オオッ、大丈夫ですか、素晴らしい!」
じゃあタナバタの万葉歌を1つ挙げましょう。
万葉集には130を超えるタナバタの歌がありますが、
その一つ、現代語訳しなくても解る歌に
〖天の川 遠き渡りはなけれども
君が舟出は 年にこそ待て〗 巻10
という歌があります。
天の川の川幅は狭いと考えられていたのですね。
それなのに年に一度しか会えない、なんと切ないことでしょう。
更に他の歌には〝秋風〟という言葉が多く見られます。
これは、タナバタが立秋に近い晩夏に行われていたことの証です。
確かに、その頃でないと天の川はクッキリ見えませんよね。
ということは、新暦の7月7日に行うタナバタ祭りは・・・
〝梅雨明け乞い祭り〟ということになりますよねえ、過言失礼!。
「先に進みましょう、レッツゴー!」
❷農耕祭祀と、❸棚機津女(たなばたつめ)の話です。
ここで、「七夕(しちせき)」を「タナバタ」と訓読する由来が明らかになります。
水稲農耕には、犂(すき)をひかせる牛馬が登場します。
牽牛=牛ですから農耕と深く関わり、
古代中国では農耕祭祀に欠かせなかったと思われます。
滋賀県能登川町石田遺跡では、馬鍬(まぐわ)と呼ばれる犂が出土しています。
4世紀後半~5世紀初頭のもので、日本最古の犂です。
万葉集の巻10に、
〖我が為と 織女(たなばたつめ)が その屋戸(やど)に
織る白栲(しろたへ)は 織りてけむかも〗
※私のためにと、織女(たなばたつめ)が、その家で
織る白栲(しろたへ)の布は、もう織り上げてしまっただろうか
「織女(たなばたつめ)」のつは、助詞のので〝機織りの女性〟
のことですから、
「七夕(しちせき)」の7月7日、「星祭り」と「乞巧奠(きこうてん)」
の行事が催される。その時着る衣用の白栲の布を待つ男。
愛する人のために一生懸命機織りをする女性「たなばたつめ」。
真新しい衣を縫ってあげるんでしょうね、きっと。
そんな光景を思い浮かべるのも楽しいですね。
さてこれで、❷農耕祭祀。❸棚機津女(たなばたつめ)が、
❹星祭り・❺乞巧奠と合体しましたね。
織女(たなばたつめ)のような女性は、かなり昔から日本に存在していたことが判っています。それは何処まで遡れるのでしょうか?
更に「棚機津女(たなばたつめ)」の棚の意は何でしょうか?
さて、いよいよ最後の➊祖霊祭と❻盆に移ります。
書いているうちに、すっかり夜が明けて、もうお昼ですよ。
家内に食事を供えてきます。
お待たせ致しました。ひと眠りしたら夕方になってしまいました。
祖霊をお迎えし、共同飲食し再び送り帰すという交霊を目的とする行事が「祖霊祭」です。だから、魂祭り・霊祭りとも言います。
古くは、旧暦7月と師走の2回行われていました。
師走の「祖霊祭」は、正月の年神の祭りと合体同化し、
現在では旧暦7月の「祖霊祭」だけが、『お盆』と合体して根強く継承されています。
師走の「祖霊祭」の形跡は、『枕草子』『徒然草』『和泉式部の歌』
にみられます。
そこで〝お盆〟ですが、「盆」という言葉は、仏教経典の盂蘭盆経
から生じたものです。
盂蘭盆とは、梵語(サンスクリット語)の〝甚だしい苦・倒懸の苦〟を意味するウランバナー(ULLAMBANA)という語に由来し、
盂蘭盆会が公に催された記録は、推古14年(606)にあります。
問題はここからです。
盂蘭盆会は、仏教説話にあるように、阿鼻地獄(無間地獄)に落ちて苦しむ母親を、息子の木蓮が救ったという個人救済の色合いが強いもので、
「祖霊祭」とは全く無縁のものです。
この仏教行事〝盆〟と「祖霊祭」が集合し始めたのは、
旧暦7月の中元に、中国で行われていた盂蘭盆会を、
日本の寺院も行うようになってからのことで、その日が仏教伝来の遥か昔から続いていた「祖霊祭」の時期に重なり、
寺院が盂蘭盆会を用いて「祖霊祭」を説明し、それが全国普及したからです。
現在、一連の盆行事として行われている草市・盆道・精霊棚・
迎え火・送り火・盆踊りなどの中心行事は、全て「祖霊祭」の交霊祭事そのままなので、決して盂蘭盆会ではありません。
また、盂蘭盆会自体、仏教の大きな法会ではないのです。
こうして長い年月を経て、仏教国の日本は、➊祖霊祭と❻盆が
習合していったのです。
これで➊~❻までが、7月7日のタナバタと深く繋がっていることの説明ができたのではないかと思います。
しかし、もう一つ、えッと驚く最大の事実があります。
皆さんもそうだったのかと納得していただけると思います。
それは「たなばた」パート2として次回にお話ししましょう。