「くにまるジャパン 極」、話術の巧みさと軽快な進行、さすがだ。

休憩時間、互いにある生き物が極端にダメだということを認識した。実は石原裕次郎さんもそうだった。

話しは縄文人の世界へと移って、とても楽しかった。

邦丸さん、そして西川さん有難う御座いました!

 

マネージャーの吉岡君と文化放送をあとにした。彼の娘さんの職場を覘くことにした。

外国の石鹸を販売するおしゃれな店だ。いい香りが漂っていた。この娘も息子同様、彼に似なくてよかった。世の中うまくできてる。

 

今日は敬愛する人の月命日。彼と別れて、お墓参りに行った。

『来たか、苅』

『はい、1ヶ月ぶりの御無沙汰でした。25度もありますよ兄イ、もう夏空ですね』

『そうだなあ、梅雨も早そうだな』

渡さんは、湿気・気圧・息苦しさ・酸素ボンベ・高熱、もう何も気にしなくていい世界にいらしゃる。

 

そういえば東日本大震災の2年後だったか、こんなことがあった。

僕は小樽の『裕次郎記念館』をよく訪ねた。館長は僕の親友KA君で、石原プロのどん底時代に歯を食い縛って頑張った仲間でもある。

北海道の夏はカラッとして心地いいのだが日差しは強かった。帰路、彼が言った。

『俊ちゃん、渡さんはこのロールケーキが好きな筈だから渡してくれよ。』

『よし、分った』

僕は羽田に着いて渡さんに電話し御自宅に向かった。到着した時、奥さんが明るく出迎えて下さった。僕は居間の方に向かった。決して応接間にはいかない。そんな客じゃないからだ。

何となく廊下が薄暗くて蒸し暑い。居間に着くと更に暗く、長方形の白いテーブルがボンヤリ見える。

『オオ、来たか』

そのテーブルの奥にポツリと『兄イ』が腰かけていた!

『どうしたんですか!?』

『節電だよ。みんな我慢してるんだ、俺も一緒だよ』

・・・僕は一瞬声を飲んだ。

“救命ボートで10人が助かった。11人目の人が溺れそうになって助けを求めている。しかし11人乗ったらボートは確実に沈み全員が死ぬ。俺は11人目になれるかを考えてるんだ“

僕が33歳頃の時、助手席に乗った兄イが語ったことが走馬灯のように頭の中を駆け巡っていたのだ。

〔やはりこの人は自分の生き方を貫いていた〕

僕はわざと明るく言った。

『明り点けましょうよ、せっかくKA君が渡さんにと言って買ったロールケーキですよ』

奥さんが「そうね」と言って灯してくださった。渡さんは眩しそうに僕を見て目を細めた。

 

今日のお墓参りは長かった。1時間ちょっとはいたと思う。

『兄イ、次に会えるのは梅雨の晴れ間ですね』

『だなあ』

『晩飯は寿司ですよ』

『オオ、しばらく喰ってねえなあ』

『じゃ、失礼します』

『次はステーキってとこか 苅?。好きな時にいつでも来いよ』

『オッ、兄イ。今日はご機嫌ですねえ、分かりました。』