ブログを書くのはいつも夜、日を跨ぐ時も多い。しかも4日ぶり、今日は節分、明日は立春。

暦について少し綴ってみよう。子供さんやお孫さんに話して聞かせたら尊敬されるかも・・・

古代中国では暦の改定に伴い、冬至のある月や立春のある月が正月だったこともある。これは古代日本『倭国』にも大きく影響を及ぼしている。

『論考・箸墓古墳の謎』纒向学研究センターH30/10/14・苅谷俊介』参照

後漢第三代皇帝の章帝は、元和二年(AD85)に改暦し、太陽年を365と4分の1日とする四分法に基づく暦法、「後漢四分暦」を施行した(二月甲寅、始用「四分歷」。詔曰、今山川鬼神應典禮者~略~以祈豐年。『後漢書』巻3章帝)。

それまで冬至(12月22頃)のある月が正月『冬至歳首』とされてきたが、この改暦により立春のある月が正月『立春歳首』となる。

下の写真は、奈良県桜井市の『纒向遺跡』中枢部(3世紀前半)の建物B跡より立春の日の出を撮ったものだが、聖山『三輪山』山頂より上った。やったー!自分の説に自信を持った、へへへ。

以後この暦は延康元年(220)までの基準で「魏では17年呉で1年蜀では43年間使用」されている

暦と尺度は深い関係にあり、中国王朝の暦は、音律・度量衡と連動して改定され、国家祭礼とも密接に関わっている(その法は律を以て暦を起こす『漢書』律暦誌)。

1尺・23.75cm、一歩(6尺)・1.425cm、1丈(10尺)・2.375cm、

1里(300歩)・427.5mとなる。

魏の明帝景初元年(237)三月に改暦が行われ、「景初暦」(1年=365.24688日)となり、冬至の月(12月)を正月とする『冬至歳首』に変更される。「冬十月乙卯、洛陽南委粟山為円丘。冬十二月壬子冬至始祀」(『魏志』巻三明帝紀)とあり、53年ぶりに『冬至歳首』の復活がなされている。

明帝景初2年(238)12月は卑弥呼の使者が洛陽に至った年で、卑弥呼に「親魏倭王」の称号が与えられている。景初暦は次の王朝「晋」に継承され、晋の武帝泰始元年(265)に「泰始暦」に改暦されたとされるが、それは景初暦と同一のものだ。

ということで、冬至の月や立春の月が正月だった事実を記した。

 

それとは無縁で我が家の食事は淡々としている。

朝昼食

3時のおやつ

夕食

朝昼食

3時のおやつ

夕食

今日2日は遅く起きて(15時起床)朝昼食抜き。ごめんね。

今日の夕食

食後の果物、レモンティーにイチゴ

夜のおやつは、オロナミンCとサブレかな? 何がいいかなー