安国寺遺跡

独り言なので、ご覧になるのならザーッと目を通すだけにしてくださいね。

大分県国東市に「西の登呂遺跡」といわれる『安国寺遺跡』がある。田深川の傍の低湿地に位置するのどかな集落だ。争いが頻繁に勃発する弥生時代後期にあって、どことなく安らぎのある風景だ。コロナの終息をみたら一度出かけてみたらどうだろう。

僕の考古学の師匠が指揮を執り、昭和25年(1950)~27年にかけて5回の発掘調査を行い、良好な姿で建築部材を検出なさった。それをもとに復元されたのが上の写真の高床式倉庫群だ。

ここで作られた『安国寺式壷形土器』は、吉備(岡山県)から出土し、大和(奈良県)の『纒向遺跡』からも破片が出ている。

国東市は東九州であり、瀬戸内を通して吉備・畿内の関西方面との繋がりが強かったようで、大和の土器の影響も大きい。

『安国寺遺跡』の隆盛期は、弥生時代後期後半~古墳時代前期前半(2C後半~3C初頭)だ。いわゆる邪馬台国の時代に重なる。

 

木立古墳の埴輪検出状況

もうやりたくない程寒かった。北風に小雪が舞い手袋に手が凍り付くようだった。

築造時期は5世紀末に近く、全長約36mの『帆立貝式前方後円墳』で、谷部に築かれていることもあって木製品はほゞ完形だった。上の写真のように埴輪の配置方法もよく解った。

尾根の上にも数基の古墳があり、作業員さんの指導のため登ったり下りたり、フ~フ~

ヘトヘトだった。

下の写真は完掘状況を、前方部側から撮ったものと側面から撮ったものだ。

この『木立古墳』の不思議なところは谷部に築造されていることだ。普通は丘陵上か中腹の目立つところに築くのだが・・・

あれこれ推測していくと、ひとつの点に辿り着いた。

それは前方部全面の西100m弱のところを、飛鳥に向かう『山田道』という古道が走っていることだ。その古道からは『木立古墳』がはっきりと確認できる。丘陵上ではそうはいかない。

飛鳥では、葛城氏・平郡氏・物部氏・大伴氏らの勢力が割拠し、蘇我氏が急速に力を持ち始めたころである。

『木立古墳』は、桜井市に盤踞する大豪族「阿部氏」の勢力圏の内に属すると思うが、

その境界に近い位置にある。いわば、『山田道』の飛鳥入りの目安の位置でもあろう。その辺との関連性を考えると『山田道』から見えるように、わざわざ谷部に築造する意味があったのではなかろうか。