2023年12月22日、最愛の母が永眠致しました
今年の4月に乳ガンが発覚し、その時にはもう肺やリンパに転移していて手遅れの状態でした
ある日「お母さん、ちょっと胸にキズがあるから皮膚科に行ってくるね」と言われ、
「どれ?」と胸の状態を見せてもらったら、そこだけえぐれて膿んでるような感じ
それを見て悲しいかな、私はピンときてしまいました
「これはいいモノではないな」と。
みんなに心配をかけまいと、ずっと隠してたんだよね
なんとも母らしい
でもこんなに元気でご飯もモリモリ食べている
「この人、ほんとにガンなのかな?」って思ったぐらい
まぁガンと言えどもしばらく普通の生活が出来ていたんですが、
9月の終わりに自転車で転び、腰を圧迫骨折
二週間程の入院を経て、退院して自宅療養になったけど、
骨折が引き金となったんだか、そこからガタガタと体調を崩していきました
それでも「大丈夫」と気丈に振る舞う母
最後まで弱音を吐かなかった
でも、だんだん体力も落ちていき、トイレに行くにも息が上がってハァハァ言うように。
で、病院に行きたいというので、自宅でも出来る酸素吸引の機械をレンタルし、
しばらくそれでやり過ごしていたんだけど、
それでも悪化のいとをたどるばかりで
本当は自宅で看取りたかったけど、やむなく入院させる事に。
面会も毎週休みの度に行ってて、最初の頃は普通に会話も出来てたんだけど
薬のせいか、支離滅裂な事を言い出すように。
「今日は観光バスに乗って宴会に行ってきた」とか「今日はインドに行ってきた」とか、、
それでも「そうなんだ~、良かったね」と話を聞いてたけど、
だんだん変わっていく母に動揺を隠せませんでした
で、薬の副作用でせん妄が起きてしまい、
服を脱ごうとしたり、「帰る」と言って荷物をまとめ出したり、酸素の管を抜いてしまったり。
なので病院側はもう少し強い薬でほとんど寝てる状態にさせ
(起きてたり意識があると苦しいから)
私達姉妹も「出来るだけ苦しまずに逝かせたい」という思いがあったので同意しました
で、それからはほとんど意識朦朧としてて、
姉と妹が面会に行った時には話が出来てたらしいんだけど、
その晩から意識がなくなり、ただ苦しそうに口と肩でハァハァと息をしている状態になりました
それから4日程そんな状態で、私は年末で仕事が忙しい事もあり、残業をしていたら姉から電話で
「母の血圧が下がってきたから、来れるなら来て」と言われ、
仕事そっちのけですっ飛んで行きました
私がついた時には相変わらず苦しそうに酸素マスクをしてハァハァと息をしている母
「お母さん、ももだよ、わかる」と言ったら、
意識なんてほとんどないのに一瞬目を空けてくれました
それを見て「まだ逝ったらダメだよ」と泣き叫びました
そして孫やらみんな集まって、みんなが見守る中、母は静かに息を引き取りました
身近な親の死って、こんなに悲しいもんなんだな
特に私は嫁にいってた10年間以外はずっと母と暮らしていたし、
姉妹の中でも私が一番母と一緒にいた時間が長い
今頃になって「もっと親孝行しておけば良かったな」って思うけど
最後に色々連れて行けたし、病気になってから娘三人と温泉旅行にも行けた
「本当に私はいい娘達に囲まれて幸せだ」
と生前よく言ってた母の言葉が昨日の事のように思い出される
そして、亡くなった後入院してた時の荷物をまとめていたら、
三人の娘に宛てた遺書が入っていた
そこには「また元気になって、ももと暮らしたいけど毎日苦しい、辛い、痛い、この3拍子に負けてしまいました」
「ももは一人じゃないよ、私以上に守ってくれる人達が周りにいるから安心しなさい」
「幸せになってね」
そんな事が書かれており、最後に
「さようなら」
の言葉で締めてありました。
生前よく「元気になったらまた○○やりたいな」
「元気になったらまたももの好きな○○作ってあげるからね」
なんて言ってたけど、
もう自分の命の期限が迫っている事を、ちゃんと母なりに察していたんだろうな
それが非常に悲しくて悔やまれる
でも、やっと楽になれたね
そう思いながら、眠ってる母の頬に沢山キスをしました
「よく頑張ったね」と、冷たくなってしまった身体を何度も何度も撫でました
告別式も母らしい温かみのある式が出来て良かったです
四十九日までうちに祭壇が祀ってあるけど、
遺影の母はとてもいい笑顔をしている
毎日母の遺影に話しかけてます
母がいなくなった悲しみはすぐには癒える事はないけど、
いつまでもクヨクヨしてると母も心配して成仏出来なくても困るので、
私がしっかり前を向いて歩いていく
それが母に対しての一番の供養だと思ってます
そんな悲しい年末になってしまったけど、
皆様はどうか、温かい新年をお迎え下さい
私も頑張ります
今年も私のブログを読んで下さり、ありがとうございました。