日本機動部隊戦記 ⑤ 〜ソロモン攻防戦〜 | サト_fleetの港

サト_fleetの港

ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


昭和17年 (1942年) 6月のミッドウェー海戦で大敗した日本軍は、
計画していたハワイ攻略などの大規模な侵攻計画 (第二段作戦) を断念した。
だが、その目的の一つ “米豪遮断作戦” は継続し、
ソロモン諸島のガダルカナル島に基地航空隊を進出させることで、オーストラリア方面の連合軍の活動を抑止しようとした。

しかし、8月7日、日本軍が飛行場を建設しているガダルカナル島に、
アメリカ海兵隊を主力とする連合軍1万名以上が上陸してきた。
日本軍の設営隊を奥地に駆逐して飛行場を占領したアメリカ軍は、ガダルカナル島を足場に太平洋方面で反攻に転じようとしていた。
以降、増援部隊を送ってこれを撃退しようとする日本軍との間で、
半年以上におよぶ陸海空の激戦が続くことになる。






第二次ソロモン海戦


ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った第一航空艦隊は解隊され、
7月、新たに空母6隻を基幹とする機動部隊 “第三艦隊” が編成された。
第一航空艦隊の司令官だった南雲忠一中将と、参謀長だった草鹿龍之介少将は、
そのまま横すべりで第三艦隊の指揮を執ることになった。

【第三艦隊】
 ※旗艦 空母『翔鶴』
第一航空戦隊 (一航戦) 
   空母『翔鶴』『瑞鶴』 
   空母『瑞鳳』※訓練中
第二航空戦隊 (ニ航戦)
   空母『飛鷹』『隼鷹』※訓練中
   空母『龍驤』
第十一戦隊
   戦艦『比叡』『霧島』
第七戦隊
   重巡洋艦『熊野』『鈴谷』『最上』
第八戦隊
   重巡洋艦『利根』『筑摩』

 他、軽巡洋艦1隻、駆逐艦16隻 等




南雲中将は、珊瑚海海戦での修理を終え、新たにレーダー (21号電探) を装備した空母『翔鶴』に将旗を掲げた。
日本海軍の規定では、南雲中将より先任である第二艦隊 (旗艦 重巡『愛宕』以下、戦艦1隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦10隻 等) の近藤信竹中将が第三艦隊を統一指揮することになっていた。
ところが、近藤中将の第二艦隊司令部と南雲中将の第三艦隊司令部は、
情報交換や戦術のすり合わせを一度も行ったことがなかった。

また、 第三艦隊のうち、第一航空戦隊の軽空母『瑞鳳』と、
第二航空戦隊の空母『飛鷹』『隼鷹』は練度不足のため、まだ日本で訓練を続けていた。
このため、第二航空戦隊の軽空母『龍驤』が、代わりに第一航空戦隊と行動を共にしていた。
ミッドウェー海戦から間もない時点で再編された機動部隊は、
編成や指揮系統に付け焼き刃感が否めなかった。

一方、日本陸軍は、ガダルカナル島に上陸したアメリカ軍を早期に撃退するため反撃を試みた。
陸軍参謀本部の作戦参謀 辻政信中佐は、初期の段階でアメリカ軍の戦力と戦意を過小に評価し、
得意の銃剣突撃をかければ、海に追い落とせるだろうぐらいに考えていた。
しかし、上陸してきたアメリカ軍は、装備も一新された精鋭部隊だった。
急派された軽装備の一木支隊 (第7師団歩兵第28連隊基幹) 先遣隊900名による攻撃は、アメリカ軍の優勢な火力の前にほぼ全滅して失敗に終わった。

アメリカ軍は、占領した飛行場をミッドウェー海戦で戦死した航空隊士官の名前をとって “ヘンダーソン飛行場” と名付け、航空兵力を逐次増強していった。
やがて、このヘンダーソン飛行場から発進するアメリカ軍機により、
ガダルカナル島に向かう日本軍の輸送船や艦艇が攻撃を受け、増援が困難になっていく。

※ヘンダーソン飛行場 (初期の頃)


アメリカ機動部隊の動きも活発化していた。
フランク・J・フレッチャー中将率いる正規空母『サラトガ』『エンタープライズ』『ワスプ』を基幹とする第61任務部隊が、ガダルカナル島沖に進出した。

※第61任務部隊 空母『サラトガ』
 (USS Saratoga, CV-3)
※第61任務部隊 空母『エンタープライズ』
 (USS Enterprise, CV-6) 


※第61任務部隊 空母『ワスプ』

 (USS Wasp, CV-7)



8月中旬、ガダルカナル島増援に、川口支隊 (第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹) 約4000名が派遣されようとしていたが、

連合艦隊司令部は、

「ガダルカナル島付近で敵機動部隊出現」

の報告を受け、輸送船による川口支隊の輸送を一時中止した。

そして、ガダルカナル島周辺の航空優勢の確立のため、トラック島に停泊中の第三艦隊に出撃を命じた。


その頃、先に進発していた陸軍の一木支隊の後続部隊と海軍陸戦隊を乗せた輸送船団が、
第二水雷戦隊 (軽巡『神通』以下、駆逐艦3隻 等) に護衛されてガダルカナル島に近付いていた。
第三艦隊はこれを支援するため、軽空母『龍驤』を分派してヘンダーソン飛行場を攻撃させ、
そこへ出てくるであろうアメリカ機動部隊を、第一航空戦隊 の『翔鶴』『瑞鶴』で捕捉撃滅するという作戦をたてた。
名目は輸送船団をアメリカ軍の基地航空隊から護るためだったが、
どちらかというと『龍驤』を囮 (おとり) にしてアメリカ機動部隊をおびき出すことに主眼が置かれた作戦だった。


※第二航空戦隊 軽空母『龍驤』

(右上が艦首方向)


8月24日 午前 (現地時間以下同じ)、
第三艦隊は、陸軍上陸予定日 (25日) を前に、
小型空母『龍驤』と、その護衛として重巡『利根』、駆逐艦『時津風』『天津風』を艦隊から分離してガダルカナル島攻撃に向かわせた。 

午前10時過ぎ、
『龍驤』と護衛艦隊はガダルカナル島の北方460㎞に達した。
そして、午前10時20分
『龍驤』から零戦6機と九七艦攻6機が発進。
その30分後には、さらに零戦9機が発進した。


※九七式艦上攻撃機 (九七艦攻)
(陸上基地攻撃のための爆装を
している)


※零式艦上戦闘機 (零戦)


攻撃隊は2時間後にヘンダーソン飛行場を攻撃、
「爆撃成功」を打電したが、零戦2機と艦攻3機が撃墜された。
零戦1機と艦攻1機はヌダイ島に不時着した。
(搭乗員は駆逐艦『望月』に収容された)

午後1時頃、
『龍驤』が索敵のB17爆撃機に発見された。
空母『エンタープライズ』の索敵機 (ドーントレス急降下爆撃機) も
「小型空母1隻、重巡1隻、駆逐艦3隻発見」
を報告している。
偵察機に発見されたとあれば、1時間もすれば敵の本格的な攻撃があるはずだが、   
『龍驤』はそれに対応する何の行動も起こさない。
『龍驤』の対応の遅さを見かねた駆逐艦『天津風』の原為一艦長は、
海軍兵学校で同期だった『龍驤』副長の貴志久吉中佐に、
「失礼ながら貴艦は飛行機準備、発進攻撃共に手ぬるし、国家のため一層御奮闘を祈る。怒るなよ」
と手旗信号を送った。
『龍驤』からは
「有難う、お互いにしっかりやろう」
の応答があったという。


その頃、第三艦隊主力は、
1時間前に重巡『筑摩』の水上偵察機から入電した
「敵大部隊見ユ、ワレ敵戦闘機ノ追跡ヲ受ク」
の報告 (その後 同機は消息を絶った)  と、別の索敵機からの情報
「敵兵力ハ空母2、戦艦2、巡洋艦2、駆逐艦16」
に基づき、アメリカ機動部の位置をスチュワート諸島付近と推定。

午後12時55分、
空母『瑞鶴』と『翔鶴』から、関衛少佐指揮の攻撃隊 (九九艦爆27機、零戦10機) を発進させていた。 

※『翔鶴』から発艦する九九式
艦上爆撃機 (九九艦爆)



午後1時8分、
『翔鶴』は、ちょうど零戦隊を発艦準備中に、SBDドーントレス急降下爆撃機2機に奇襲された。
『翔鶴』は急転舵して回避し、投下された爆弾は艦橋舷側すれすれに至近弾となった。
艦体に被害はなかったが、急転舵で旋回した際、飛行甲板上の零戦と整備兵6名が海に転落して行方不明となった。
このドーントレスは、2機ペアで索敵にあたっていた索敵隊の機で、
日本機動部隊を発見したついでに、搭載していた爆弾で攻撃したのだった。
アメリカ軍はこういう “強襲偵察” を好んで行った。
『翔鶴』のレーダーはドーントレス機を探知して艦橋に報告していたが、喧噪により幹部達に伝わらなかったという。

※索敵用にも使われたドーントレス
急降下爆撃機


午後1時50分、
アメリカ空母『サラトガ』を発進した攻撃隊が『龍驤』を発見した。
『龍驤』は第三艦隊から約100㎞離れて行動していたため支援を得られず、
ドーントレス艦上爆撃機 (急降下爆撃機)30機、アベンジャー雷撃機8機の集中攻撃で、
爆弾4発、魚雷1本を受けて炎上、4時間後に沈没した。
貴志副長ら約120名が戦死し、加藤唯雄艦長以下生存者300名余りは随伴の重巡『利根』と駆逐艦が救助した。
アメリカ軍攻撃隊に被害はなかった。

※中央上部は停止している『龍驤』、その右は『時津風』、
左下は爆撃を避けながら避退する『天津風』。


午後2時28分、
ちょうど『龍驤』が攻撃を受けていた頃、
関少佐の攻撃隊がアメリカ機動部隊を発見した。
しかし、その上空には、120㎞手前から53機のグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機が待ち構えていた。
日本軍攻撃隊の直掩戦闘機は、わずか零戦10機、
多勢に無勢で、零戦隊は艦爆隊の護衛に手が回らない。
足の遅い九九艦爆は、たちまちワイルドキャット戦闘機の餌食になって撃墜されていった。

※F4Fワイルドキャット戦闘機


何とか、敵戦闘機を振り切って敵機動部隊上空にたどり付くと、
今度は対空兵装を強化した戦艦『ノースカロライナ』から猛烈な対空射撃を浴びた。
弾幕をかいくぐった艦爆が、空母『エンタープライズ』を狙って急降下するも、
5インチ高角砲や対空機銃の全砲火が集中する。
次々に艦爆が火を噴いて墜ちていく。

※『エンタープライズ』に迫りながらも対空砲火で火を噴いた九九艦爆


その中で、対空砲火を突破した機が放った250㎏爆弾のうち3発が『エンタープライズ』に命中した。
うち2発は甲板5層を貫通して下士官室で爆発、
『エンタープライズ』は炎上して4度傾斜した。

※『エンタープライズ』飛行甲板

に爆弾命中の瞬間

(この写真を撮った米軍カメラマン

爆死した)


※黒煙を上げる『エンタープライズ』


しかし、
『エンタープライズ』の火災は、炭酸ガスの消火剤ですぐに消火された。
飛行甲板にあいた穴も、修理チームによって艦載機の発着に支障がないレベルに修理された。

僚艦の空母『サラトガ』は攻撃をかわして被害はなく、
『ワスプ』は燃料補給のため南下しており、海戦に参加していなかった。

※日本軍の攻撃でできた飛行甲板
の破孔を応急修理する工兵チーム


日本軍の攻撃隊は、艦爆17機、零戦3機が未帰還。
艦爆1機、零戦3機を不時着で失うという損害を出した。
このうち『瑞鶴』艦爆隊9機は全滅だった。
第三艦隊は第2次攻撃隊も発進させたが、こちらはアメリカ機動部隊を発見できず引き返している。
日没となり、日本機動部隊の攻撃は中止された。

出番のなかった『翔鶴』の艦攻隊を指揮する村田重治少佐は、
「艦爆ばかり出したから、折角やっつけた空母を逃がしたね」
と、第二航空戦隊の奥宮正武航空参謀に皮肉を述べている。
村田少佐は、“雷撃の神様” の異名をとり、
真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで空母『赤城』の飛行隊長として活躍してきたが、
ミッドウェー海戦で『赤城』喪失のあとは『翔鶴』飛行隊長に着任していた。

日本の第三艦隊もアメリカ機動部隊の攻撃を受けたが、水上機母艦『千代田』が損傷したにとどまった。
この戦いは “第二次ソロモン海戦” と呼ばれる。
第二次ソロモン海戦での日本軍の損害は、軽空母『龍驤』沈没、水上機母艦『千代田』損傷。
航空機の損失は『龍驤』艦載機を含めて、零戦30機、艦爆23機、艦攻6機、水上偵察機3機、計62機にのぼった。


アメリカ軍は、空母『エンタープライズ』が中破したが、速力24ノットで航行可能だった。

(真珠湾での修理を経て、2ヵ月後には戦線に復帰する)

艦載機の喪失も20機ほどで、戦力的に大きな影響を及ぼすものではなかった。

ヘンダーソン飛行場も『龍驤』隊の攻撃による被害は軽微で、
ここを発進したドーントレス急降下爆撃機とB17爆撃機が、増援部隊を乗せた日本軍の3隻の輸送船と護衛の第二水雷戦隊を攻撃した。
これにより、輸送船 (特設巡洋艦)『金龍丸』と護衛の駆逐艦『睦月』が沈没、
軽巡『神通』が直撃弾を受け小破という損害が出たため、増援作戦はまたもや中止された。

日本軍はむざむざ軽空母1隻を失い、ヘンダーソン飛行場の破壊にも、増援部隊の派遣にも失敗した。

※遊弋 (ゆうよく) する米機動部隊
『ワスプ』艦上から『サラトガ』『エンタープライズ』を望む。



陸海軍の軋轢


陸軍からは海軍に対し、
任務遂行より、自らの艦隊の保全を優先し、戦況に関わらず敵の空母のみを攻撃の目標としている。
敵の輸送船を攻撃して全般作戦を容易にする着意が認められない。
などといった不満が出された。
陸軍は、海軍が輸送船を出し渋っていると考えていた。
かつ、機動部隊など強力な戦力を持つ海軍が、もっと積極的に連合軍の輸送船団を攻撃してガダルカナル島に揚陸される敵兵力を削いでくれていたら、
陸軍があれほどまでに苦戦することはなかったものを、と言いたげだった。

たしかに、第一次ソロモン海戦の時も、
三川軍一中将率いる第八艦隊 (重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻) は、敵輸送船団を主目標にして出撃したが、
護衛のアメリカ・オーストラリア連合艦隊を破りながら、敵空母の出現を怖れ、輸送船団には手を付けずに引きあげてしまった。
海軍には以前から、上陸してくる敵を攻撃するのは陸軍の仕事という考え方が根強くあり、
作戦の主旨は敵輸送船団撃滅であっても、
現場部隊は専ら敵艦隊攻撃を主任務と考えていたきらいがある。
ソロモン海域の戦いでも、この “悪弊” が出てしまった。


8月31日、第二次ソロモン海戦に勝利したフレッチャー中将座乗のアメリカ空母『サラトガ』は、引き続き哨戒活動にあたっていたが、

日本海軍の『伊26』(伊号第二十六潜水艦) の魚雷攻撃で航行不能に陥り、重巡『ミネアポリス』に曳航されてトンガへ撤退した。
攻撃を受けた際、司令官のフレッチャー中将も負傷した。

※雷撃を受けて傾斜した米空母『サラトガ』


さらに9月15日、
ガダルカナル島へ向かう第7海兵連隊を乗せた輸送船団を護衛していた空母『ワスプ』も、
『伊19』(伊号第十九潜水艦) に撃沈された。

※米空母『ワスプ』に魚雷命中


この時、発射された魚雷6本のうち3本が『ワスプ』に命中。
命中しなかった残り3本はそのまま海中を進み、1万メートル北方に展開していた別のアメリカ艦隊に突入。
1本が駆逐艦『オブライエン』の右舷艦首に命中。
あと2本は『オブライエン』の艦尾をかすめ、1本が戦艦『ノースカロライナ』の左舷第1主砲塔側面部に命中した。
『ノースカロライナ』は大掛かりな修理が必要となり戦列離脱。
『オブライエン』は後に本国に帰還途中、この時の損傷がもとでキール (竜骨) が折れて沈没した。

しかし、『ワスプ』が護衛していた輸送船団はガダルカナル島ルンガ泊地に到着、
海兵隊4000名と戦車や武器弾薬糧秣の揚陸に成功した。

この場合、アメリカ空母を撃沈したことで、日本軍が一矢を報いたとみることもできるが、
肝心の輸送船団は見逃してしまっている。
本来 潜水艦は、輸送船など補給部隊を攻撃して敵の兵站を撹乱することで効果を上げるものである。
それは、アメリカ海軍が徹底して潜水艦で日本の輸送船を沈め、
補給線を遮断して日本を苦しめたことをみても明らかである。
だが、日本軍の潜水艦は、空母などの大型艦の攻撃を優先し、
輸送船や商船への攻撃を軽視する傾向があった。
日本軍の潜水艦が、もっと連合軍の輸送船団攻撃に重点を置いていたら、
戦局は違ったものになっていたかもしれない。

いずれにしろ、
第二次ソロモン海戦以降、日本軍は輸送船による増援をいったん断念し、
海軍の駆逐艦による輸送 (鼠輸送)、および、陸軍が上陸用舟艇を用いて島づたいに輸送する方法 (蟻輸送) で細々と補給を行うようになった。

※駆逐艦に乗り込む日本陸軍兵士


9月中旬、いったん中止されていた川口支隊の増援が、鼠輸送と蟻輸送で行われ、
ガダルカナル島にたどり着いた部隊による第1次総攻撃が行われた。
しかし、この輸送方法では野砲などの重火器が揚陸できない。
ジャングルを越えて奇襲を企図した川口支隊は、軽装備のまま突撃したが、
鉄条網と強力な火器で防御されたアメリカ軍陣地を突破できず、
ムカデ高地 (アメリカ軍呼称 “血染めの丘”) の夜戦などで、戦死・行方不明者600名余りを出して撃退された。


昭和17年 (1942年)10月、
兵力を小出しにする攻撃では、損害のみ多く効果が乏しいことをようやく悟った日本軍は、
師団規模の兵力を投入して戦局挽回を図ろうとしていた。
そこで、陸軍の第二師団 (師団長 丸山政男中将) 1万5千名を動員し、
総攻撃をかけてヘンダーソン飛行場を一挙に制圧しようという作戦が決定された。
そのために必要な野砲や戦車などは、鼠輸送では輸送できないので、
高速輸送船団を組んで海軍に護衛させ、兵員とともにガダルカナル島タサファロンガに強襲揚陸させる計画だった。

陸軍は、この第二師団の輸送と護衛および、ヘンダーソン飛行場への総攻撃の支援を海軍に要請した。
これを受け、連合艦隊司令長官 山本五十六大将は、
第二艦隊と第三艦隊から成る支援部隊を編成し、出動を命じた。

10月11日、
日本海軍の支援部隊はトラック島を出撃した。
そして、10月13日 深夜、
支援部隊のうち第二艦隊の戦艦部隊 (戦艦『金剛』『榛名』) が、夜陰に乗じてヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を加え、
基地航空隊の航空機の半分以上とガソリンのほとんどを焼き払った。



この間に、陸軍の第二師団を乗せた高速輸送船団6隻が、
14日、タサファロンガ泊地に投錨して揚陸作業を開始した。
しかし、アメリカ軍はヘンダーソン飛行場とは別に第2滑走路を完成させており、 
まだ、無傷の基地航空隊機が残存していた。

第二師団の兵員の上陸が成功し、軍需物資の陸揚げにかかった時だった。
壊滅したはずのアメリカ軍機が来襲し、揚陸中の日本軍を攻撃した。
この攻撃で、輸送船3隻が沈没。
揚陸して海岸に集積されていた戦車10両や重火器を含む軍需物資も、
16日夜までに、沖合のアメリカ駆逐艦からの砲撃で大半が破壊されてしまった。
結局、揚陸に成功したのは、
食料の50%、重火器の20%程度だった。
このため第二師団は、満足な食料と兵器がないまま、第2次総攻撃を行わねばならなかった。

※米軍の攻撃で黒煙を上げる日本軍輸送船団
(右の機影はドーントレス急降下爆撃機)


日本海軍の支援部隊 (第二艦隊、第三艦隊) は、陸軍第二師団の第2次総攻撃に呼応して行動する計画だったが、
当初19日に行われる予定だった総攻撃は、陸軍の都合で再三延期された。
歩兵が、地図もないジャングルを人力だけでかき分けて進んでいるため、なかなか攻撃態勢が整わないのだ。
22日になっても攻撃は行われず
「24日に延期する」
と、陸軍から一方的な通告があった。
この間、支援部隊はガダルカナル島に接近しては、延期の連絡で反転して北上するという行動を繰り返していた。
総攻撃を待って島の近くに留まり続けては、アメリカ機動部隊に発見されるおそれがあるからだ。
その分、艦隊の限られた燃料も浪費される。
海軍側は苛立った。




第二師団の総攻撃は、24日夜半より始まった。
しかし、直前に辻参謀に作戦変更を進言した右翼方面隊の指揮官が罷免されて指揮系統が混乱、
各隊バラバラにアメリカ軍陣地に攻撃をかけた。
一時、ヘンダーソン飛行場の手前1㎞まで迫った部隊があり、
師団司令部に作戦成功を意味する「バンザイ」の電報を送った。
司令部一同はこれに歓喜し、海軍の支援部隊にも報告されたが、
これは誤報で、飛行場は依然アメリカ軍が維持していた。
誤報とわかった師団司令部は落胆した。
ガダルカナル島付近まで南下していた支援部隊の第三艦隊も、
飛行場が制圧されていないと知り、あわてて反転北上した。


10月25日 午前9時、
山本五十六連合艦隊司令長官は、支援部隊の前進部隊 (第二艦隊の第二航空戦隊) に、ヘンダーソン飛行場攻撃を命じた。
新たに第二艦隊に合流した第二航空戦隊の空母『隼鷹』は、日本郵船の貨客船『橿原丸』を改装した空母で、 
正規空母に比べて速力も遅く、装甲も薄かったが、正規空母なみの50機前後の艦載機を搭載できた。

『隼鷹』を発進した志賀淑雄大尉指揮の攻撃隊 (零戦12機、九九艦爆12機) は、
ヘンダーソン飛行場を爆撃し、石油タンクを炎上させた。

※第二航空戦隊 空母『隼鷹』



陸軍第二師団の左翼方面隊は、突進攻撃でアメリカ軍の哨戒線を突破したが、
たちまち砲火にさらされ大損害を出した。
25日夜から26日早朝にかけて、再び第二師団は夜襲をかけたが、
重火器の支援がないままの突撃は、敵の機銃や砲による十字砲火を浴びて死傷者が続出し、総攻撃は中止された。
第2次総攻撃において第二師団は、
戦死傷者7000名以上を出して壊滅状態となった。

※陸軍第二師団進撃ルート


アメリカ軍は、日本軍の戦法を徹底的に研究していた。
夜襲を得意とする日本軍の動きをいち早くつかむため、
ジャングルのあちこちに集音マイクを設置していた。

日本兵の銃剣突撃に対しては、管制射撃網を敷き、

機関銃や迫撃砲などで、圧倒的な火力で撃退した。

それは、猛烈な対空砲火の弾幕で、日本軍航空部隊の攻撃を防いだアメリカ機動部隊の戦法に共通するものがあった。

“お家芸” と呼ばれる得意戦法も、いつかはその弱点を突かれ、封じられる時がくる。
アメリカ軍は、日本軍の攻撃を封じる防御兵器と戦法を確立し、海上でも陸上でも日本軍の撃退に成功したのだった。

ガダルカナル島の戦いで日本軍は、反撃の兵力を小出しにして投入し、
その都度、個別撃破されるという戦いに終始した。
何にも増して、補給の軽視は致命的であった。
海軍は、輸送船団を護るより敵艦隊との戦いに熱心だったが、
結果的にソロモン方面の航空優位の確立に失敗した。
アメリカ軍の航空機に次々に輸送船を沈められ、鼠輸送で細々と補給をつなぐしかない状態に追い込まれた。
ガダルカナル島の日本兵は、兵器・弾薬はおろか食料の補給もほとんどなく、
戦死者より餓死者やマラリアなどの病死者の数が上回るという惨状を呈した。
(ガダルカナル島での日本軍死者・行方不明者約2万名)

ガダルカナル島は “餓島” と呼ばれ、
その悲惨な状況は、戦史に後世まで残されたのであった。