“ヨーロッパで最も危険な男” | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


第二次世界大戦中、連合軍から
“ヨーロッパで最も危険な男” と呼ばれたナチスドイツの軍人オットー・スコルツェニー (Otto Johann Anton Skorzeny)。
今回は、ヒットラーの懐刀として、数々の特殊作戦を遂行したスコルツェニーの半生を振り返る。

※オットー・スコルツェニー
(頬の傷は学生時代に行った
決闘で受けたサーベルの傷)


SS入隊 〜 コマンド司令官に

1908年、オットー・スコルツェニーは、オーストリアの首都ウィーンの中産階級の家庭に生まれた。
ウィーン工科大学を卒業したスコルツェニーは、当時台頭してきた国民社会主義 (ナチズム) に傾倒していた。
1938年にドイツがオーストリアを併合、1939年にはドイツ軍がポーランドに侵攻 (第二次世界大戦の始まり) という風雲急を告げる中、
エンジニアとして働いていたスコルツェニーはドイツ空軍を志願した。
しかし、年齢が30歳を超えていたため認められず、かわりに親衛隊特務部隊 (後の武装親衛隊) に入隊することになった。
親衛隊 (SS) は、ドイツ国防軍とは別系統のナチス党が統括する軍事組織で、
ヒットラー総統の護衛を主任務とするほか、国防軍と連携して軍事作戦全般にも参加した。

スコルツェニーは第1SS装甲師団の前身となる部隊に配属され、1940年2月に実戦に参加した後、
東部戦線に派遣されて技術将校として戦車や車輌の整備にあたった。
しかし、これは彼を満足させる任務ではなかった。
1941年、冬の訪れた東部戦線でソ連 (現ロシア) 軍の攻撃を受けて負傷したスコルツェニーは、
12月にウィーンに送還され、傷が癒えた翌年にはベルリンの補給廠に回された。

※鍵の部隊マークが特徴の第1SS
装甲師団 (写真はサイドカー部隊)


スコルツェニーが補給廠で技術関係の仕事に就いていたある日、
親衛隊作戦本部 (SS-FHA) から出頭命令を受けた。
当時ドイツ軍は、イギリス軍コマンド部隊の攻撃に悩まされていた。
イギリス軍のそれは、サブマシンガンと手榴弾という軽装備で装甲車やオートバイで敏速に移動し、
神出鬼没のゲリラ戦を展開するというものであった。
ドイツ軍にも諜報や破壊工作を行う部隊はすでにあったが、
親衛隊作戦本部は、イギリス軍コマンド部隊に対抗し得る部隊への転換をはかり、その指導をスコルツェニーに任せようとしていたのだ。

“技術的訓練を受けた将校” で “特殊任務を達成できる人材” を必要としているとの説明に、
これまでの閑職に飽きたらなかったスコルツェニーは、この要請を快諾した。
1943年春、予備役大尉となったスコルツェニーは、
ベルリン郊外にあった “フリーデンタール特殊任務特別教育課程” (以下フリーデンタール部隊) と呼ばれた親衛隊のコマンド部隊の司令官に着任した。
ところが、当初スコルツェニーに与えられたのは、オランダやフランドル地方の義勇兵が大半の200人程度の兵員と、
敵から鹵獲 (ろかく=分捕ること) した兵器という貧弱なものであった。

これに諦めることなくスコルツェニーは、SS空挺大隊や国防軍の特殊部隊ブランデンブルク大隊からの志願者など各方面から人材を集め、
最終的には2個大隊 (1個大隊は500〜600人規模) ほどの兵力にした。
また兵器の拡充にも努め、自らオランダに赴き、
二重スパイを使って、イギリスがオランダのレジスタンス (抵抗組織) 向けに供給した特殊爆弾やサブマシンガンなどを入手したりした。
こうしてフリーデンタール部隊は、スコルツェニーによって本格的なコマンド部隊として再編成された。

※フリーデンタール部隊時代
スコルツェニー (1943年)


ムッソリーニ救出

スコルツェニーの名を世に知らしめることになったのは、
1943年9月に行われたムッソリーニの救出作戦であった。
同年7月、ドイツや日本と軍事同盟を結んでいたイタリアの首相ムッソリーニが解任され、
国家憲兵隊によって拘束されるという事件が起きた。
(イタリアはこの後、連合国軍に降伏する)

ムッソリーニが、アペニン山脈のグラン・サッソ山塊の山荘ホテルに幽閉されているという情報をつかんだドイツ軍は、
ヒットラーの特命により、空軍の降下猟兵部隊とスコルツェニーの部隊による協同救出作戦を行うことになった。(猟兵とは軽歩兵といった意味)
作戦の課題は、2000mを超える高山の稜線にあるホテルへどうやって隠密裏に近付き、また、どうやってムッソリーニを安全に脱出させるかであったが、
まず空軍のグライダーで降下猟兵をグラン・サッソに降下させ、
降下猟兵がホテルの守備隊を制圧している間に、ムッソリーニを保護して脱出させるという計画が立てられた。

この作戦に使用されるグライダー (DFS-230 C1) は、胴体前部に3個の逆噴射ロケットを搭載した新型機で、
狭くて平地の少ない山岳地帯への着陸距離を短縮させる機能を持っていた。
救出したムッソリーニを連れ出すには、
やはりSTOLE性能に優れたレシプロ小型機 (Fi156連絡機) を使用し、
これにスコルツェニーも同乗してムッソリーニに随行し、北イタリアのドイツ軍支配地域まで飛ぶ計画であった。

9月12日、作戦は決行された。
誰もが予想しなかった方法での鮮やかな奇襲に、守備していたイタリア国家憲兵隊は無抵抗で降伏した。
もちろん、ムッソリーニも無傷で保護され、この作戦は完璧なまでの成功を収めた。
ドイツ軍の宣伝機関は、このことを世界に向け大々的に宣伝したため、
連合軍はスコルツェニーの名を知ることになった。

※グラン・サッソのホテル周辺に
降下したドイツ軍グライダー

※作戦に参加した空軍降下猟兵
(降下兵迷彩服を着用し空挺隊
開発されたMG42自動小銃を所持)

※救出したムッソリーニ (右) と並
んで立つスコルツェニー


ムッソリーニ救出の功績によりSS少佐に進級し、名誉ある騎士鉄十字章を授与されたスコルツェニーは、
その後も、ユーゴスラビアの反ドイツ勢力指導者チトー (後の大統領) 誘拐作戦 (これは失敗) や、
密かにソ連との講和を画策したハンガリー摂政ホルティ提督の次男の誘拐などに暗躍した。
ホルティJr.の誘拐作戦では、スコルツェニーは事前にヴォルフ博士の偽名を使って、ブダペスト市内で情報収集にあたったといわれている。


グライフ作戦構想

1944年秋、ヒットラーから大いに気に入られ中佐に昇進したスコルツェニーに、
ヒットラーはまたしても重大な秘密作戦の遂行を指示した。
それは、その年の冬に予定されているベルギーでの大反攻作戦を支援するため、
アメリカ軍部隊に偽装した装甲部隊を投入して連合軍を撹乱しようというものであった。
その上で、偽装アメリカ軍部隊はマース川に架かる橋を占領し、
後続の主要部隊を無事渡河させてアントワープへの進撃路を開くことを任務とした。
ヒットラーは、自身が立案したこの秘密作戦に “グライフ” (上半身はワシ、下半身はライオンの伝説上の動物) の作戦名を与えた。

※アドルフ・ヒットラー (右) と
スコルツェニー


さっそくスコルツェニーは、この作戦に必要な特殊任務旅団 “第150SS装甲旅団” の編成計画を上層部に提出した。
それには、兵員3千名余りと、アメリカ軍の武器や車輌多数 (戦車15輌、装甲車20輌、自走砲20門、ジープ100台、トラック120台、オートバイ40台など)、
および人数分のアメリカ軍の軍服を必要とすると記載されていた。

同時に、ドイツ軍最高司令部は全軍に対し、英語に堪能な者を募集する通達を流した。
これには、元船員やアメリカ駐在経験者など英語に詳しいと自認する志願者が、
陸海空軍から親衛隊まで各部隊から多数集まった。
ところが、実際に流暢な英語を話せる者は、アメリカ英語を話せてスラングも熟知した者が10名ほどいたほかは、
スラングには詳しくないが英会話ができる者が数十名、それなりに英語の知識を持ち合わせた者150名、
あとは、学校で習った程度の者が200名ほどであった。

必要とされたアメリカ軍の車輌も、
集まったのは鹵獲したコンディションの悪いM4戦車が2輌ばかり。
このためスコルツェニーは、旅団の規模を計画より縮小するとともに、
他の部隊から兵員を引き抜くなどしてなんとか2500名規模の部隊にまとめ上げた。
不足している車輌も、追加でジープ30輌などを調達したほか、
ドイツ軍の戦車やトラックをアメリカ軍風に改装して合計約70輌を準備した。

※アメリカ軍のM10駆逐戦車に偽装
たドイツ軍のⅤ号戦車 (パンター)


さらに、志願者の中でとくに英会話が堪能な者80名ほどを選抜して、
“シュティーロウ部隊” と名付けられた特殊部隊を編成した。
この特殊部隊の隊員には英語能力だけでなく、諜報や破壊活動の能力も要求された。
彼らは、爆発物や通信に関する訓練や、アメリカ陸軍の内情に関する講義を繰り返し受けたほか、
アメリカ英語をより正確に習得するため、捕虜収容所でアメリカ軍捕虜を相手に英語で会話する訓練も行った。
お堅い感じのドイツ兵に比べてくだけた感じのアメリカ兵になり切るため、ガムを噛む訓練?などもあったという。
いくら本人がアメリカ兵になり切ったつもりでも、長年身に付いた習慣はなかなか抜けるものではなく、
上官の前で飛び上がるようにドイツ式の敬礼をしてしまい、それを見たスコルツェニーが頭を抱える場面もあったようだ。

こうして編成された第150SS装甲旅団であったが、
隊員に真の目的は秘匿されていた。
そのため部隊内には、
“ドイツ軍はアントワープへの攻撃、またはパリの連合軍最高司令部占領を計画している” という噂が流れ、広く信じられていた。


アルデンヌ (バルジの戦い)

1944年の年末が近付くと、
ヨーロッパ戦線の連合軍は、ドイツ軍の降伏が近いとみて気の緩みが出ていた。
ベルギーに駐留するアメリカ軍も、このところ目立ったドイツ軍の攻撃もないことから、戦闘よりもクリスマスの休暇の話題で持ちきりだった。
12月16日、そんな浮かれたアメリカ軍の油断をつくかのように、
機甲部隊を主力とする20個師団から成るドイツ軍が、アルデンヌ高原を突破して怒涛のごとくベルギー領内になだれ込んだ。
“アルデンヌの戦い” または “バルジの戦い” と呼ばれる戦いの始まりであった。


 

※以上、ベルギー領内を進撃する
ドイツ軍機甲部隊
(写真上から、Ⅴ号パンター中戦車
Sdkfz251兵員輸送車、Ⅲ号突撃砲)


スコルツェニー指揮の第150SS装甲旅団も、
精鋭第1SS装甲師団、第12SS装甲師団などとともに作戦行動を開始した。
これらの車列の先頭に偽装アメリカ軍車輌を進ませ、敵の目を欺く戦法である。
先行して、アメリカ陸軍の軍服を着用し、アメリカ製の銃器を持ってジープに乗ったシュティーロウ部隊の隊員が、
数名の小部隊 (班) に分かれてアメリカ軍支配地域奥深く潜入していた。
彼らは、道路標識の方向を変えたり、通信設備を破壊したりする工作を実施した。
またある班は、遭遇した1個連隊 (約3千人) のアメリカ軍を堂々と英語で交通整理して違う道路に誘導した。
これらのシュティーロウ部隊の活動に、アメリカ軍は大混乱に陥った。

こうした工作が功を奏したか、
作戦開始当初の第1SS装甲師団らの進撃は目覚ましいものがあった。



※以上、アメリカ軍の第14装甲
騎兵連隊を襲撃する第1SS装甲
師団擲弾兵 (12月18日ポトー)


やがて、アメリカ軍も偽アメリカ兵の存在に気付き出すが、
アメリカ軍の軍服を着ているシュティーロウ隊員はスパイとみなされ、捕らえられるとその場で銃殺刑に処せられた。
捕らえた隊員にこの部隊の目的を尋問したところ、彼らはこう自白した。
「部隊の指揮官は、スコルツェニー中佐である」
「我々の真の目的はパリに向かい連合軍総司令部を襲撃することだ」
パリ総司令部襲撃は、第150SS旅団内に流れていた噂にすぎなかったが、
それを信じ込んでいた隊員たちは、尋問に対して真実と確信して答えたのだった。
これが思わぬ効果をあげることになった。

パリの連合軍総司令部襲撃など荒唐無稽な虚偽の自白だろうと思いつつも、
アメリカ軍内部には、ムッソリーニ救出作戦や要人誘拐を実行してきたスコルツェニーならやりかねないという意見が出てきた。
このため、パリの連合軍総司令部の周囲には、警備のため多数の憲兵が配置された。
最高司令官のドワイト・アイゼンハワーは厳重に警護され、
散歩も許可されず、何週間も司令部の建物内で息をひそめていなければならなかった。
アイゼンハワーは同時期 大将から元帥に昇級したのだが、
この年のクリスマスは、囚人のように不自由で孤独なものだった。

パリの連合軍全将兵には夜8時以降の外出禁止令が出され、
厳戒体制のパリ市内はさながら戒厳令が出たかのようだった。

※ドワイト・アイゼンハワー元帥
(後の第34代アメリカ大統領
 写真は大将当時 1944年頃)


偽アメリカ軍の出現に疑心暗鬼になっていたのはベルギーの前線でも同じだった。
本物のアメリカ軍か偽物かを見極めるため、あちこちで野戦憲兵隊が検問を行った。
とはいえ、シュティーロウ部隊の隊員たちはアメリカ英語が堪能な上、
アメリカ軍の内情やアメリカ人のライフスタイルにも精通しており、生半可な質問では尻尾を出さない。
そこで実施されたのが、本当のアメリカ人しか知らないような通俗ネタのクイズだった。
たとえば、
ミッキーマウスガールフレンドの名前は?」メジャーリーグの優勝球団は?」「俳優のシナトラのファーストネームは?」
などで、この検問のため、アメリカ軍の移動や物資の運搬が著しく渋滞することになった。

そんな中で珍事も続発した。
検問は階級に関係なく公平に行われたのだが、
ある時、軍司令官のブラッドレー中将は
「イリノイ州の州都は?」という質問に正しくスプリングフィールドと答えたにもかかわらず、
質問した憲兵が正解はシカゴだと思い込んでいたため、一時拘留されてしまった。

※オマール・ブラッドレー中将


またある時は、ドイツ軍の攻撃を受けていたサン・ヴィトへ向かっていた第7機甲師団のクラーク准将が質問を受け、
「シカゴ・カブスが所属しているのはアメリカンリーグ」(実際はナショナルリーグ) と間違って答えたため、
「こんな質問を間違えるのは “クラウツ” (ドイツ兵の蔑称) だけだ!」と興奮した憲兵に拘束されてしまった。
このため、クラーク准将はサン・ヴィトへの到着が5時間遅れる事態となった。

このような状況に、アメリカ軍をライバル視するイギリス軍のモントゴメリー司令官も確認のため前線に向かった。
すると、前線には “ドイツ軍のスパイにモントゴメリーに似た男がいる” というデマが広まっており、
モントゴメリーの乗った車も検問に引っかかった。
無視して通過しようとしたが、アメリカ軍憲兵が発砲して車のタイヤを撃ち抜いた。
別の場所に連行されたモントゴメリーは尋問を受けたり身分証明書の提示を求められたりした。
モントゴメリーはすぐさま解放しなければ軍法会議にかけてやると激怒したが、
結局、数時間も拘束されることになった。

バーナード・
 モントゴメリー元帥


後にこの話を聞いたパリにいるアイゼンハワーは、
「これは、スコルツェニーがこれまでに上げた最大の戦果だ」
と言って面白がったそうだが、
この頃から、何をしでかすかわからないスコルツェニーは、
“ヨーロッパで最も危険な男” の異名をとるようになった。


シュティーロウ部隊は、敵の後方撹乱の面で大きな成果を収めていたが、
前線に送り込まれた44名の隊員のうち、12月19日までに帰還したのはわずか8名に過ぎず、あとは戦死したか捕らえられて処刑されたとみられた。
当初、ドイツ軍の奇襲に狼狽していたアメリカ軍も徐々に態勢を整え、
増援部隊も到着して本格的な反撃に移った。
偽装アメリカ軍装甲部隊の活動も、アメリカ軍に周知されると効果が薄れ、
スコルツェニーは、グライフ作戦は失敗したと判断した。
第150SS装甲旅団は偽装を解き、隊員はドイツ軍の軍服に着替えて通常の戦闘に参加することになった。

※ドイツ軍を阻止するため霧雨の
中を進むアメリカM36駆逐戦車
(12月20日 ウェルボモン)

※アメリカ軍部隊には輸送機から
落下傘投下するなどして続々と
物資が補給された


12月21日、第150SS装甲旅団は第1SS装甲師団の傘下に入り、要衝マルメディ攻略に向かったが、
ここで、アメリカ軍の新兵器 “VT信管” の砲弾による攻撃を受けて大損害を被る。
VT信管付きの砲弾は、もともとはアメリカ海軍が対空用に開発したものでマジックヒューズ弾とも呼ばれ、
目標に命中しなくてもその近くに達した時点で、発振される電波や磁気の反応で炸裂する仕組みになっていた。
1944年6月のマリアナ沖海戦では、
アメリカ艦隊上空に来襲した日本軍機動部隊の攻撃機がこれで次々に撃墜された。
ベルギーのアメリカ軍には、空輸による補給物資の一つとして送られていた。

第150SS装甲旅団は、数度にわたってマルメディのアメリカ軍陣地に攻め寄せたが、
一斉射で歩兵百人以上が死傷するというVT信管砲弾の威力に恐慌状態に陥り、
やむなくスコルツェニーは攻撃中止を命じた。
鹵獲したM4戦車や、アメリカ軍戦車に偽装したパンター戦車はほとんどが撃破され、ドイツ兵の戦死者とともに戦場に遺棄された。
この日、第150SS装甲旅団の司令部が入るホテルにもアメリカ軍の砲弾が落下、スコルツェニーは重傷を負った。
12月28日、スコルツェニーは部下の将兵とともにドイツに撤退し、旅団は解散した。

※反撃のため進軍する増援された
アメリカ軍第101空挺師団の兵士
(12月31日バストーニュ)

※撃破され放棄されたドイツ軍の
ティーガ Ⅰ 型戦車
(1月25日 オーバーヴァンパッハ)


オーデルの戦い 〜 戦後

ベルギーでの大反攻作戦も失敗に終わり、ドイツの敗色は一気に濃くなった。
1945年1月、ドイツに戻っていたスコルツェニーは、親衛隊のトップであるハインリヒ・ヒムラーから、
攻勢に出たソ連軍に対する防衛線をドイツ東部オーデル川河畔に構築するよう命令を受けた。
スコルツェニーがドイツ防衛のためにかき集めた兵力は、一時は1個師団規模 (1万5千人) にまで膨れ上がったが、
その内容は、訓練を受けていない老人や少年兵、傷病兵、乗る飛行機がないので歩兵に回された空軍パイロット、前線から撤退してきた疲れ果てた敗残兵など、
およそ即戦力で使い物になるような人材ではなかった。
また、彼らの出身地はドイツのみならずヨーロッパ各地におよび、中にはソ連兵まで含まれていた。
大戦末期のドイツ軍を象徴するかのような寄せ集め部隊だったが、
スコルツェニーは彼らを訓練指揮して奮戦した。

※前線を視察するスコルツェニー
 (1945年 東プロイセン)


しかし、押し寄せるソ連軍の勢いに抗しきれず、2月上旬ついに後退を始めた。
これに怒った最高司令部はスコルツェニーを司令部に出頭させた。
司令部にはヒムラーが待っており、軍事裁判に掛けてやるなどとスコルツェニーを激しくなじった。
スコルツェニーも、大声で怒鳴って応酬した。
すると、ヒムラーは急に静かになり、今度はスコルツェニーを食事に招待すると言ったという。


そして5月、ドイツは無条件降伏した。
終戦時、ヒットラーもヒムラーもすでに自決してこの世にいなかった。
スコルツェニーは、戦時中にアメリカ軍に偽装した部隊を作ったことが戦争犯罪行為にあたるとして連合軍から訴追された。
裁判は2年間におよび、スコルツェニーはその期間をニュールンベルクの収容施設で過ごした。
アメリカ軍の軍服を着ていたことでスパイとして射殺されたかつての部下のように、
スコルツェニーも死刑判決が出ると思われたが、
意外にもイギリス軍の関係者が、連合軍も同じようなことをしていたと証言し、彼は無罪となった。

1948年7月、スコルツェニーは、
親ドイツで知られるスペインのフランコ総統からパスポートを与えられてスペインに移住し、
戦前に就いていたエンジニアの仕事を再開して暮らし始めた。
だが、そこでおとなしく余生を送るようなスコルツェニーではなかった。
1950年〜60年代に、エジプトのナセル大統領やアルゼンチンのペロン大統領のコンサルタントを務め、
その期間に、戦犯容疑を免れるためスペインやイタリア経由で中東や南米に逃亡する元ドイツ軍人数十名の手助けをしたといわれる。

※アルゼンチンのフアン・ペロン
大統領 (右) とスコルツェニー


スコルツェニーは、亡命ナチス軍人の支援組織 “SS同志会” を組織し、本部をスペインのマドリードに置いて運営した。
その会員は世界22ヵ国10万人におよんだ。
また、南米に設立した元親衛隊員や元ドイツ軍人でかためた組織を使って、
アルゼンチン、パラグアイ、チリなど南米の反共軍事政権諸国の支援を行い、そのバックにはアメリカがいたと噂された。
1960年代には “モサド” (イスラエルの情報機関) の接触を受けて、自分の名前をイスラエルの “ナチス戦犯リスト” から外すことを条件に、
当時のエジプトで長距離ロケット (ミサイル) 開発計画に携わっていた元ナチスのドイツ人技術者の名前と住所のリストを渡した。
これを利用してイスラエルは、ドイツ人技術者たちを脅してエジプトの長距離ロケット開発から手を引かせた。

その後スコルツェニーは、反共軍事政権下のアルゼンチンでセメント業を営み、経済的な成功を収めた。
また、情報面で取り引きしたイスラエルの保護の下、南米諸国に脱出した元ナチスの軍人との交流は晩年まで続いた。

第二次世界大戦中から戦後まで、歴史の影の舞台で世界を操ったスコルツェニーは、
1975年、スペインのマドリードで癌のため67年の波乱の生涯を閉じた。