シンガポール攻略 | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


昭和16年 (1941年)12月8日、
日本海軍機動部隊のハワイ真珠湾奇襲にあわせ、陸軍部隊もマレー半島北部コタバルなどへの上陸を開始した。
上陸後、イギリス軍守備隊を各地で撃破しつつ破竹の進撃で南下した日本軍は、
翌 昭和17年 (1942年)1月31日、マレー半島南端のジョホールバルに突入。
イギリス軍は、ジョホール水道に架かるコーズウェイ※注釈1 を爆破して、シンガポールに撤退した。

こうして、上陸から55日間でマレー半島を縦断した日本軍は、
ジョホール水道を隔てて対岸にシンガポールを望む地点に到達した。
残るは、最終目標であるシンガポール攻略であった。

   
※マレー半島・シンガポール概図


 迫る総攻撃


シンガポールはマラッカ海峡に通じる戦略上の要衝で、
東洋のジブラルタルとも呼ばれるイギリスのアジアにおける一大軍事拠点だった。
ここを根拠地として、イギリスは東南アジアの植民地経営に力を入れていた。
難攻不落といわれたシンガポール要塞であったが、
外海に面した島の南側は要塞砲やトーチカなどで強固に防衛されていたのに対し、
マレー半島に面した北側の防備は薄かった。
イギリス軍としては、背後に自然の要害であり、守備隊が要所を固めるマレー半島があるので、
よもやその防衛線を突破して半島側から攻めてくる敵はいないだろうと考えていたようだ。

この “常識” を覆したのが、
マレー・シンガポール攻略作戦を担った山下奉文 (やました ともゆき) 中将指揮する日本陸軍第25軍であった。
第25軍は、第5師団 (広島)、第18師団 (久留米)、そして近衛師団 (東京) を基幹とする3万5千名の部隊で、
数でこそイギリス軍の半分の兵力だったが、戦車部隊をともなった近代的な精鋭部隊だった。
(マレー方面のイギリス軍に戦車は配備されておらず装甲車のみだった)
そして、海軍や航空部隊との協同作戦による支援も受けていた。



※一路 シンガポールに向かって
マレー半島を突進する日本軍の
戦車隊、機械化歩兵 (自動車隊)、
銀輪 (自転車) 部隊。


日本軍とイギリス軍は、幅約1㎞のジョホール水道をはさんで対峙した。
しかし、2月になって両軍の動きはピタリと止まったかに見えた。
開戦以来、夜を日に継いだ進撃を続けてきた日本軍にはさすがに疲れがみえていた。
弾薬も必要とされる量の3分の2に消耗していた。
第25軍は各部隊の補充と再整備に努めながら、着々とシンガポール上陸の時に備えていた。

第25軍司令官 山下奉文中将
“マレーの虎” と呼ばれた。
(後に大将に昇進) 


一方のシンガポールを守るイギリス軍は、いわゆるイギリス連邦軍で、
アーサー・パーシバル中将を指揮官として、イギリス本国からの第18師団をはじめ、オーストラリア第8師団、インド第9および第11師団、それにマレー第1旅団など8万5千人で構成されていた。
(うち戦闘部隊は7万人、残り1万5千人は行政管理要員)
パーシバル中将は、兵士や市民が動揺してパニックになるのを警戒し、
とくに表立った日本軍進攻に対抗する行動をとらなかった。
そのため、市街はこれまでと変わらず平穏を保っていた。

※海路シンガポールに到着した
オーストラリア師団

※イギリス極東軍マレー司令部
司令官 アーサー・パーシバル
中将


パーシバル中将は、日本軍のマレー半島上陸の時から、
3ヵ月も持ちこたえれば、イギリス本土から応援部隊が来て日本軍を駆逐してくれると考えていた。
その間の籠城に備えて弾薬の節約も指示され、
空襲に際しても、撃ち上げられる対空砲火は散発的であった。
これに乗じて、日本軍の爆撃隊はテンガー、センバワン、カランなどの飛行場を猛爆して甚大な損害を与えた。
加えて、陸軍航空隊の第64戦隊 (加藤隼戦闘隊) などの活躍もあり、イギリス軍航空部隊はほぼ壊滅していた。
こうして、シンガポールの制空権は日本軍が掌握するに至った。

※マレー・シンガポール方面の
爆撃に向かう日本軍の爆撃隊


また、先のマレー沖海戦 (12月10日) では、
シンガポール救援のためイギリス本土から派遣された主力戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』が日本海軍航空隊により撃沈されており、
すでに制海権も日本軍が握っていた。


 シンガポール上陸


2月8日昼頃より、
日本軍砲兵隊はジョホールバルの高台に設けられた砲兵陣地から、シンガポールへ向けて攻撃準備射撃を開始した。
これまでも両軍の砲撃戦は行われていたが、この日の日本軍の砲撃は凄まじいものだった。
440門の砲による15時間におよぶ砲撃は、20万発の砲弾をシンガポールのイギリス軍陣地に叩き込んだ。
イギリス軍の反撃の砲撃も活発になり、
夜になっても衰えぬ両軍の激しい砲火は、ジョホール水道を閃光と轟音で包んだ。
いよいよ、シンガポール上陸作戦が始まろうとしていた。

対岸にシンガポールを見渡せるスルタンの王宮に戦闘指揮所を移した第25軍司令部は、山下中将らが固唾をのんでこれを見守っていた。

※第25軍が一時戦闘指揮所を置
いた旧スルタン王宮の見張り塔
(現 ジョホール州政庁)


2月8日 午後10時30分 (現地時間,  以下同じ)、
支援砲撃が一時止み、シンガポール北西岸めざし、第25軍の第5師団および第18師団が上陸用舟艇でジョホール水道を渡り始めた。
空には南十字星などの星が輝いていたが、海上は真っ暗だった。
砲撃で電源が破壊されたのか、イギリス軍の探照灯 (サーチライト) は点灯しなかった。
シンガポールの島影は、砲撃により立ち昇る炎に照らされていた。
舟艇の鈍いエンジン音が海上に響いた。

※第25軍のシンガポール進撃路
(矢印は 赤=近衛師団  黄=第5師団  青=第18師団)


サリンブン海岸など北西部の上陸地点では、守備するオーストラリア第8師団麾下の第22旅団が砲火を開いた。
いくつも水柱の上がる暗夜の海上から、続々と押し寄せる日本軍の上陸用舟艇。
砲弾が命中した舟艇がメラメラと炎を上げる。
第1波はかなりの損害を出したが、第2波第3波と続くうち、
岸にたどり着いた舟艇の兵士たちが次々に上陸していく。

上陸に成功した部隊が発射する赤や青の吊星弾 (照明弾) が上がる。
識別のため、赤は第18師団、青は第5師団と決められていた。
海岸に上陸した日本兵は、激しい機関銃の射撃に前進を阻まれながらも、
次第にオーストラリア旅団の防衛線を突破していった。

※イギリス連邦軍の主力機関銃
ヴィッカース重機関銃


オーストラリア第22旅団は日本軍に押されながらも反撃を続けていたが、
戦線のあちこちで部隊は分断・孤立しており、通信も途絶えていた。
午前零時を過ぎた9日未明、旅団長のテイラー准将は海岸の防衛を諦め、テンガー飛行場方面への撤退を始めた。
そのテンガー飛行場も、9日午後には日本軍の手に落ちた。
やむなくオーストラリア第22旅団は、
内陸部のジュロン川とクランジ川の源流を結ぶ細い尾根 “ジュロン−クランジ防衛線” まで後退した。

2月9日夜半から10日未明にかけては、近衛師団が北部地区のクランジ海岸マンダイ河口付近に上陸を開始した。
この地区を守っていたのは、オーストラリア第27旅団と、“ダルフォース” と呼ばれる中国系シンガポール人で編成された義勇兵部隊で、
貯蔵庫の重油を流して火を放ち、日本軍の上陸を妨害しようとした。
マングローブが生い茂る湿地帯に足を取られていた上陸部隊は、迫撃砲や機関銃による攻撃に加えてこの “火攻め” に苦戦したが、
突如としてイギリス軍司令部は、オーストラリア第27旅団とダルフォースに退却命令を出した。
先に上陸した日本軍の部隊が後方から迫っているとの情報を受け、挟撃されるのを恐れてのことだった。
窮地を脱した近衛師団は、他の二師団に比べて少ない損害で上陸に成功した。

日付が10日に替わったまだ暗い中、
第25軍司令部の山下中将と参謀らはジョホールバルからシンガポールに進出、
占領したばかりのテンガー飛行場の近くに陣取った。
それは、終始安全な後方から実態を把握しないまま命令を出すパーシバルとは対照的な姿だった。

※確立された橋頭堡からは戦車や
物資が続々揚陸された


同日、ジュロン−クランジ防衛線に布陣していたインド第12および第44旅団、
そしてサリンブン海岸から後退してきていたオーストラリア第22旅団などの部隊に、パーシバル中将からの秘密指令が届いた。
それは、もしこの防衛線が突破された場合、シンガポール市街を各部隊で円陣防御線を構築して防衛するという計画を伝えるものであったが、
これを見た司令官たちは、今すぐシンガポール市街まで後退するものと解釈を誤り、
ジュロン−クランジ防衛線を放棄して撤退してしまった。
おかげで日本軍はこの地を無抵抗で通過し、シンガポール最大の要衝ブキテマ高地に迫った。


 ブキテマ高地


標高164mのブキテマ高地はシンガポール市の北西約9㎞の地点にあり、
道路 (ブキテマロード) 一本で市街地につながっていた。
さらに、貴重な水源があるほか、弾薬や食糧・燃料など軍需物資の集積所になっており、この地区の防備はとりわけ厚かった。
大小の丘が連なるブキテマ高地は自然の要害であり、
北に要衝ブキパンジャン、マンダイ高地と繋がる防衛線を形成していた。
要所要所にコンクリートで固めたトーチカが築かれ、機関銃が据え付けられていた。
それらを掩護する砲兵隊も配置されていた。

※イギリス軍の野砲陣地 (25ポンド砲)


日本軍は北から第5師団、西から第18師団がブキテマ高地に進撃した。
すでに、マンダイ高地は近衛師団が攻略し、ブキパンジャンの守りも第5師団が突破していた。
イギリス軍としては、残るブキテマ高地を何としても死守せねばならなかった。
この地域を守っていたイギリス軍はインド第15旅団と、ジュロン−クランジ線から転進してきたオーストラリア第22旅団で、
ブキテマに近付くにつれて、イギリス軍の抵抗は激しくなった。
ブキテマの村やいくつもの丘やゴム林が戦場になった。 

とくに、三角州のあたりにあった “ブキテマの三叉路” と呼ばれる地点が最大の激戦地だった。
イギリス軍は巧みに地形を利用してこの地に大口径の砲を据え付け、
進入してくる日本軍に十字砲火を浴びせるべく待ち構えていた。
高地 (丘) を見上げるこの場所に進入した第5師団の兵士たちは、
たちまち丘の上と道路後方からの集中攻撃にさらされた。
それでも果敢に進撃した兵士たちは次々に敵弾に倒れ、一帯は日本兵の死体で溢れた。

※ブキテマの三叉路とされる写真


第18師団も、高地の南西で進撃を阻まれていた。
激しいイギリス軍の砲撃で師団の前線司令部付近にも着弾が著しく、
周辺の土地は掘り起こされたように荒涼としていたという。
師団長の牟田口廉也 (むたぐち れんや) 中将※注釈2 は、
上陸以来の戦闘で左肩を負傷していたが、応急処置をしてそのまま陣頭指揮を執っていた。

この時点で日本軍は、砲兵隊が歩兵部隊の進撃速度に追い付いておらず、
イギリス軍側から砲撃があっても反撃砲撃ができなかった。
敵からの砲撃の間、日本兵たちは塹壕や物陰に身を隠して息をひそめていた。

この状況を打開すべく10日夜、日本軍は決死の夜襲を敢行した。
イギリス軍も照明弾を上げて応戦し、各地で激しい白兵戦が繰り広げられた。
闇の中、銃声や手榴弾の炸裂音、日本兵の銃剣で芋刺しにされたイギリス軍兵士の悲鳴などが響き渡った。

※ブキテマのゴム林を匍匐前進
する日本兵


夜が明けると、イギリス軍は多数の遺棄死体を残して姿を消していた。
激戦を制した日本軍は、いったん付近を占領した。
その後イギリス軍は、北部に展開するイギリス第18師団から2個大隊 (第5ベッドフォードシャー大隊、第5ハートフォードシャー大隊) を増援にまわすなどして逆襲を試みたが撃退された。
11日朝、ブキテマ高地の頂上に日の丸が上がった。

日本軍が占領を発表したあとも、
広大なブキテマ高地では、残存するイギリス軍部隊と散発的な戦闘が続いた。
最終的にインド第15旅団とオーストラリア第22旅団は、多数の死傷者を出して敗走したが、
これら部隊の敗残兵の中には、シンガポール市内に逃げ込んで、略奪行為をはたらく者もいた。

ようやく日本軍がブキテマ高地周辺を完全に制圧したのは12日以降のことであった。


 イギリス軍の抵抗


2月11日の紀元節 (現 建国記念日) までにシンガポールを陥落させたいと考えていた日本軍であったが、
ブキテマ高地を失ったあともイギリス軍は降伏しなかった。
降伏勧告のビラも飛行機で撒かれたが、
イギリス軍は、12日以降もシンガポール市街を囲む最後の防衛線を敷いて頑強に抵抗を続けた。

北部地区を進撃する近衛師団は、マンダイ高地を越え、12日にニースンを攻略した。
ニースン街道には、イギリス軍が捨てて逃げたおびただしい数の小銃や武器が散乱していた。
その後、近衛師団はセレター貯水池とピアース貯水池を占領した。
水源を押さえられると、守るイギリス軍は窮地に陥 (おちい) ることになる。
シンガポール島内にある主要な水源はこの二つを含む三つで、
最後の水源マックリッチー貯水池には第5師団が迫っていた。
日本軍が水源を止める前に、送水管が砲爆撃で損傷したか、シンガポール市街への送水量は激減していた。
水を絶たれたイギリス軍の士気は大きく低下した。

※今も当時の構造物が残るマック
リッチー貯水池


13日、ブキテマ高地を突破して南西部のパシルパンジャンに迫った第18師団は、
この地区を守るインド第44旅団および第1マレー旅団と交戦して激戦となった。
現地のマレー人で編成されたマレー旅団の中の第1大隊C中隊 (アドナン・サイディ中尉指揮) は、
ブキチャンドゥの丘で全滅するまで戦い抜き日本軍を苦しめた。
その勇敢な戦いぶりは、今も語りぐさになっている。

このブキチャンドゥの丘には、大きなアヘン工場があった。
この頃のイギリスは、インドで栽培したケシを加工した麻薬アヘンを中国に輸出し、莫大な利益を得ていた。
シンガポールはその中継点だった。
シンガポールの港を出る商船はアヘンを満載して中国に向かい、
積荷を下ろした後は、中国人労働者を乗せてシンガポールに戻るというパターンが一般的だった。
中国がイギリスにアヘン漬けにされていたにも関わらず、
シンガポールに移り住んだ中国人の中には、イギリスと組んで現地マレー人を使役して財を成す者が少なからずいた。
こういった大英帝国の搾取と奴隷化の被害者でありながら、
最後まで勇敢にシンガポールを守って死んでいったマレー人兵士たちの心情はどのようなものであったろうか。

※マレー旅団の勇戦を讃える銅像
 (ブキチャンドゥ回想館 展示)


激戦の末、パシルパンジャンを突破した第18師団は14日、シンガポール市街への入口にあたるアレクサンドラ地区へ入った。
ここで事件が起きた。
イギリス軍の病院であるアレクサンドラ病院のバルコニーから、逃げ込んでいたインド旅団の兵士が発砲したのだ。
イギリス軍が病院を隠れ蓑に攻撃しているとみなした日本軍は、この病院を徹底的に攻撃した。
この攻撃で、軍医、看護兵ら病院スタッフと入院患者あわせて約280人が死亡した。
(これと同様な事例は現在の戦争でも発生している。悲劇は繰り返されている)


第18師団と別ルートで進撃する第5師団は、
パーシバル中将が以前司令部を置いていたシンガポール市郊外のサイムロード地区を目指していた。
この地区を守備していたのは、精鋭イギリス第18師団の第54旅団 第4サフォーク大隊だった。
第5師団の河村旅団 (第11連隊、第41連隊) は、戦車部隊をともなって進撃していたが、
競馬場の敵陣を突破し、サイムロードのゴルフ場に進出したところで、激しい抵抗に遭遇した。
ゴルフコースの中にある丘に布陣するイギリス軍からの反撃で、一進一退の戦いが続いた。
12日昼頃よりゴルフ場の稜線に進出した島田豊作 (しまだ とよさく) 少佐指揮の戦車中隊は、
敵の猛攻を撃退し、確保した地点を3日間保持した。

“ヘルファイヤーコーナー” と呼ばれることになるサイムロードとアダムパークロードなどが交わる幹線道路交差点でも、
13日から14日にかけて両軍の激しい砲撃戦が展開された。
同交差点を制圧し、第4サフォーク大隊が守っていた130高地に進攻して激戦の末占領したのは、
第11歩兵連隊の第3大隊 (市川大隊) だった。

※シンガポール市街めざして進撃
する日本軍の九七式中戦車と歩兵


やがて総崩れとなったイギリス軍は、
14日深夜、夜陰に乗じて近くのブキブラウン墓地に逃げ込んだ。
この墓地は中国系住民の墓が何万基もあり、あちこちに樹木が生い茂る広大なものだった。
日本軍は、ここでの掃討戦も行わねばならなかった。


サイムロード地区と並行して隣接するアダムパーク地区でも戦闘が行われた。
この地区の守りに就いていたのは、イギリス第18師団に所属する第55旅団ケンブリッジシャー連隊第1大隊だった。
同大隊はアダムパークの白人住宅地に司令部を置いており、
攻め寄せてきた日本軍の第5師団第42連隊第1大隊 (丸谷大隊) と市街戦を展開した。
住宅といっても、この地区の白人住宅は石造りの大きな邸宅 (コロニアル) で、
プールやミニゴルフ場もある広い敷地は、十分に陣地の役割を果たした。
両軍の間で、家一軒一軒を奪い合う戦いが15日まで続いた。


※当時のアダムパーク白人邸宅街

※邸宅街は現在もほぼ当時のまま
っている


占領したばかりのブキテマのフォード自動車工場に司令部を移していた第25軍の山下中将は、こういった状況を危惧していた。
戦闘が市街戦になれば、ますます戦線は膠着し、弾薬使用量は増加する。
日本軍に残された弾薬は残り少なくなっていたのだ。

一方のイギリス軍司令官パーシバル中将は、サイムロードにあった司令部を、
戦前に置いていたフォートカニングに再び移していた。
フォートカニングの丘は、もともとマレーの王族の宮殿があった場所で、イギリスが植民地化してからは総督の屋敷が建てられ、後に要塞となった場所である。
フォートカニングに戻ってきたイギリス軍司令部であったが、
それは、かつての司令部の建物ではなく、同じ敷地内にある “バトルボックス” と呼ばれる地下壕だった。

ここでは、前線から刻々ともたらされる悲劇的な情報に、パーシバル以下幹部たちが憂色に包まれていた。
イギリス軍も、水や食糧が底をつきはじめていた。
弾薬も小銃弾以外は不足してきており、
作戦会議では、これ以上の抵抗は無理だとの意見が相次いだ。


 シンガポール陥落


2月15日は日曜日だった。
依然、島内には砲撃の音が響き、あちこちからあがる黒煙で視界もかすみがちだった。
午前10時頃、日本軍の斥候から、イギリス軍が最後の抵抗を続けていたシンガポール市内に白旗が揚がったとの報告があった。
その後、白旗を掲げたイギリス軍の自動車がブキテマロードを日本軍の支配地域に近付いてきた。
イギリス軍側の使者はニュービギン准将ら4名で、地雷原を避けるため途中で車を降り、白旗とユニオンジャックの旗を担いで歩いて来た。

※投降したイギリス軍の使者と、
誘導する第25軍の杉田中佐ら


午後2時頃、第25軍司令部から、情報参謀の杉田一次 (すぎた いちじ) 中佐が到着して彼らを出迎えた。
ニュービギン准将は、杉田中佐にパーシバル中将からの手紙を手渡した。
そこには、降伏について話し合いたい旨が書かれていた。
杉田中佐は山下中将からの指示に基づいて、話し合いにはパーシバル中将本人が来ること、場所はブキテマのフォード自動車工場にすること等を伝えた。

午後5時15分、
パーシバル中将が通訳のワイルド少佐と二人の参謀をともなってフォード自動車工場に到着した。
それにやや遅れて、山下中将も到着した。
やがて始まった会談では、パーシバル中将は降伏についていろいろ条件を付けてきた。
そして、最終回答を翌朝まで待ってほしいと要求した。
これを時間稼ぎとみた山下中将は、
今すぐ降伏文書に調印しなければ攻撃を続ける。降伏するのかしないのか、と語気を強めて迫った。
パーシバル中将がなおも通訳に向かって何か言おうとすると、
山下中将は、自軍の通訳に簡潔にこれだけを聞けばいいという意味でこう言った。
「イエスかノーか」
パーシバルは低くつぶやくように答えた。
「イエス」

※降伏について会談中の山下中将、
パーシバル中将ら日英軍代表


こうして、シンガポールのイギリス軍は無条件降伏した。
会談がすべて終了したのは、午後7時過ぎだった。
イギリスの東洋における牙城といわれた要塞島シンガポールはついに陥落した。
日本軍のシンガポール島上陸から1週間、マレー半島コタバル上陸から70日目のことであった。

山下中将は、ギリギリの賭けに勝ったと言えた。
この時、日本軍に残されていた砲弾は、
野砲1門につきわずか3発だったといわれている。
これは、降伏したイギリス軍の残存弾薬量より少ない量だった。
シンガポールの戦いは、自軍の不利を悟られることなく、
いかにもまだ豊富に弾薬があるように見せかけて強気で攻めた山下中将の作戦が功を奏した戦いであった。

(シンガポールの戦いでの両軍の死傷者
日本軍 戦死1,715名、負傷3,378名。
イギリス軍 戦死・負傷それぞれ約5千名、捕虜約8万名)


※勝利のバンザイを叫ぶ日本兵
(セレター軍港)

シンガポールに入城する日本軍
戦車隊

※占領後のシンガポール市内 (ラッフルズ広場付近) 行進する日本軍歩兵部隊




【注釈】
1. 長さ1.1㎞、幅20mのコンクリート造りの土手道で、ジョホールバルとシンガポールを橋のようにつないでいた。
道路、鉄道などのほか、シンガポールに水を供給する水道管が通っていた。

2. 後に第15軍司令官となり、“ウ号作戦” (インパール作戦) を立案・指揮したことで有名。
ビルマ (現ミャンマー) からアラカン山脈を越えてインド領インパールを攻略するという大胆なこの作戦は失敗し、多大な犠牲を出した。


【おことわり】
本ブログで使用しました図や写真は、
Wikipedia ほか、研究者の皆さんが運営する “戦跡散歩” などのサイトより一部引用させていただきました。