『琵琶湖周航の歌』 | サト_fleetの港

サト_fleetの港

ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。



『琵琶湖周航の歌』
作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋

(一) われは湖 (うみ) の子  さすらいの
     旅にしあれば  しみじみと
     昇る狭霧 (さぎり) や  さざなみの
     志賀の都よ  いざさらば

(ニ) 松は緑に  砂白く
     雄松が里の  乙女子 (おとめご) 
     赤い椿の  森陰に
     はかない恋に  泣くとかや

(三) 波のまにまに  漂えば
     赤い泊火 (とまりび) 懐かしみ
     行方さだめぬ  浪枕
     きょうは今津か  長浜か

(四) 瑠璃の花園  珊瑚の宮
     古い伝えの  竹生島 (ちくぶしま)
     仏の御手 (みて) に  いだかれて
     眠れ乙女子  やすらけく

(五) 矢の根は深く  うずもれて
     夏草繁き  堀の跡
     古城にひとり  たたずめば
     比良も伊吹も  夢のごと

(六) 西国十番  長命寺
     汚れの現世 (うつしよ)  遠く去りて
     黄金 (こがね) の波に  いざ漕がん
     語れ我が友  熱き心


滋賀県を代表する歌として愛唱されている『琵琶湖周航の歌』。
この歌は今から100年以上前、旧制三高 (第三高等学校=京都大学の前身) の生徒の手によってつくられた。


※旧制三高水上部ボートクルー

当時、三高の水上部 (ボート部) は一年生部員の行事として、夏のはじめにボートによる琵琶湖周航を行っていた。
漕手6人舵手1人からなる座席の固定されたフィックス艇に乗った部員たちは、
琵琶湖南西にある三保ヶ崎 (大津) から出発し、三泊四日で時計回りに琵琶湖を一周するのだ。
一日目は雄松に、ニ日目は今津に寄港して宿に泊まり、三日目は今津から竹生島、長浜を経て彦根で宿泊。
翌日の最終日は、近江八幡の長命寺に寄って三保ヶ崎に帰港するルートが一般的であった。



大正6年 (1917年) 6月下旬、
恒例の琵琶湖周航に参加していた三高水上部員で長野県出身の小口太郎 (おぐち たろう) は、
二日目の寄港地 今津の旅館で、自作の詞を仲間の部員たちに披露した。
部員たちはこれを気に入り、当時流行っていた『ひつじぐさ』という歌のメロディーを借りて歌った。
歌には、周航で出合う名所や歴史的逸話が随所に歌い込まれていた。

こうして誕生した『琵琶湖周航の歌』は、三高水上部の愛唱歌として歌われ、やがて三高全体で寮歌のように歌われるようになった。
そして、それは人から人への口伝えで、三高以外にも広まっていった。
テレビもラジオもない時代に、まだレコード化※注釈1 もされていない歌が、
広い範囲で知られるようになったのは、驚くべきことである。
おそらく、三高が他校との試合の際に、応援歌のように歌ったものが評判を呼んだのではないかと推測される。

※作詞者の小口太郎 (三高時代)

水上部の仲間たちと小口 (後列
右端)


一方の作曲者は、原曲の『ひつじぐさ』を作曲した吉田千秋ということになっている。
吉田は、大日本農会附属東京農学校 (現 東京農業大学) の学生だったが、結核を患って中退し、
療養中に自らがかつて翻訳したイギリスの唱歌『Water Lilies』に自作の別の曲を付けた。
これを、大正4年 (1915年) 8月に、“吉田ちあき” の名で音楽雑誌に発表したのが『ひつじぐさ』だった。
つまり『ひつじぐさ』は、明治期によくあった海外の曲を借りて日本語の詞を付けた歌ではなく、
海外の歌の歌詞を翻訳して、それに本来の曲とは違う独自の曲を付けるという珍しい手法で出来上がった歌だったのである。

しかし、こういった経緯や吉田ちあきについての詳しいことは、長らくわかっていなかった。
(そのため、過去には作詞・作曲とも小口太郎としていた時代もあった)
研究者の地道な調査が実って、この作曲者が、新潟出身の歴史地理学者 吉田東伍の次男の吉田千秋であると判明したのは、平成になってからである
吉田は、独学で7ヵ国語を習得して訳詞や作曲に励むなど才能ゆたかな人物だったが、
大正8年 (1919年) に闘病むなしく24歳の若さで世を去った。

※作曲者の吉田千秋
(東京農学校時代)


おそらく吉田は、自分の作った歌のメロディーが『琵琶湖周航の歌』となって歌われていることは、生涯知らなかったであろう。
作詞者の小口も、三高卒業後東京帝国大学に進学し、在学中から通信法の研究で国際特許を取るなど将来を嘱望されたが、26歳で急逝した。
作詞者の小口と作曲者の吉田は、ついに顔を合わせることはなかったのである。

『ひつじぐさ』のメロディーが『琵琶湖周航の歌』に使われたとはいえ、
長年にわたって人々が歌い継ぐ間にちょっとずつ曲調が変わっていったためか、
聴き比べると、まったく同じというわけではない。
同様に、小口がつくった歌詞のほうも、最初のものからかなり姿を変えている。
当初は三番までだった詞が補作されて六番までとなり、歌詞も三高文芸部員らによって改訂され、プロトタイプが出来上がったのは大正7年 (1918年) 頃だったようだ。

※三保関に残る三高時代の艇庫
(京大OB有志が保存している)


では、現在の形の『琵琶湖周航の歌』について考察してみたい。

一番の歌詞にある「いざさらば」と別れを告げてあとにする志賀 (滋賀) の都とは、
飛鳥時代に天智天皇が都を置いた近江大津宮の別名で、三保ヶ崎のある大津のことを指している。
「さざなみの」(または「さざなみや」) は、近江、大津、志賀などにかかる和歌の枕詞なのだが、
「さざなみの  志賀の都よ  いざさらば」
の歌詞で思い出されるのが、
源平合戦に敗れて都落ちする平忠度 (たいらのただのり) が詠んだ和歌
「さざなみや  志賀の都は荒れにしを  昔ながらの山桜かな」
である。
都落ちする平家の武将の心情に想いを馳せたのだろうか、
小口は自らをさすらいの旅人にたとえ、ちょっとカッコをつけていた様子がうかがえる。
なかなかのロマンチストだったようだ。



同じく一番の
「旅にしあればしみじみと」
の歌詞は、詩人 有本芳水 (ありもと ほうすい) の『芳水詩集』の序文
「旅にしあればしみじみと  赤き灯かげに泣かれぬる。されば人生は旅なり、ああ われは旅人なり…」
から引用したのではないかとの説がある。
有本は兵庫県姫路出身で、感傷的な少年詩で大正期の文学少年たちに人気があった。
文学に造詣が深かったと思われる小口が、この詩集を読んでインスパイアされた可能性は充分にある。



そして、
二番の「雄松が里の  乙女子」だが、これは字面だけで解釈すれば、“雄松という里の少女” という意味になる。
だが、雄松崎という地名はあるが、雄松という地名はない。
白砂の浜が広がるあたりにある近江舞子駅は、昭和のはじめに改称されるまでは雄松駅だった。
そして、その雄松という駅名は雄松崎に由来するとのことなので、
“雄松が里” は雄松崎、現在の近江舞子駅付近 (大津市南小松、北小松) と推定される。
改訂される前の歌詞が「小松の里の…」だったことからも、これは確かであろう。

この土地の当時の様子について小口は、
二日目の寄港地 今津から友人に送ったハガキに次のように書いている。

“昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松迄来てしまった。
雄松は淋しい所で、松林と砂原の中に一軒宿舎があるだけだ。
羊草の生へた池の中へボートをつないで夜おそくまで砂原にねころんで月をながめ、美人を天の一方に望んだ。
今朝は網引をやって面白かった。今夜はこの今津に宿る。  今津で小口 ”

なお、
その地に「赤い椿の森陰に  はかない恋に泣く」ような乙女子がいたのかについては、
小口とともにクルーズに参加した部員の証言によると、小さい女の子か旅館のおばさんしかいなかったとのこと。
しかも、椿の森なんてものもない。
歌詞に出てくるような妙齢女子のエピソードは、小口がロマンチックに脚色したフィクションだったようである。
(タネ明かしをするとロマンが壊れるか・・・)

※雄松崎の “白砂青松”


三番にある「赤い泊火」とは小口の造語で、今津港の桟橋の突端に設置されていた標識灯 (航路灯) の赤い光のことらしい。
大正4年 (1915年) に設置されたこの標識灯は、ランプではなく電気式だった。
当時は木製の台座に据え付けられており、四角い本体の湖に面した部分が赤いガラス、他の三面は透明ガラスまたはすりガラスだったという。
暗くなってきた湖面を照らす電気の灯りは、ひときわ明るかったことだろう。

※今津港の桟橋にある現在の
航路灯 (柱はステンレス製)


四番
「瑠璃の花園  珊瑚の宮」「古い伝えの竹生島」にかかり、
瑠璃 (ラピスラズリ) の青い輝きは琵琶湖の湖面を、珊瑚の赤など鮮やかな色彩は島に建つ寺社の壮麗さをたとえたもの。
琵琶湖には龍神伝説があり、湖底にある龍神の城=竜宮城にも似て、
青く輝く湖面にそびえるように浮かぶ竹生島は、美しく厳かだと謳 (うた) っているのだ。
竹生島は、周航の際に立ち寄って宝厳寺や都久夫須麻神社で安全を祈願し、休憩する場所である。

※竹生島

ところで、同じく四番
「仏の御手に  いだかれて」やすらかに眠っている乙女子とは誰だろう?
二番に出てくる雄松が里の乙女子とは違うようだ。
これについては、琵琶湖にまつわるいくつかの伝承がもとになっているという説が有力である。
そこに出てくるは、湖が荒れるのを静めるため人身御供になった娘だったり、
湖を渡って想い人に逢いにいく途中、波にのまれて死んだ娘だったりとバリエーションがあるが、
琵琶湖に伝わる悲しい物語のヒロインたちである。
非業の死を遂げた乙女子たちの冥福を祈る一節を加えた歌詞からは、作詞者の優しい気持ちが読み取れる。

※竹生島にある宝厳寺の伽藍


五番の歌詞
「夏草繁き堀の跡   古城にひとりたたずめば …」
これなど、芭蕉が平泉で詠んだ
「夏草や  つわものどもが  夢のあと」
の句のオマージュであることは明らかだ。
古来、琵琶湖は戦略上の要衝にあり、周辺には戦国諸将が築いた城が多くあった。
しかし、彼らの野望も戦乱の中にうたかたの夢と消えていった。
「比良も伊吹も  夢のごと」の部分などは、天下人 豊臣秀吉の辞世の句
露と落ち  露と消えにし我が身かな  浪速のことも  夢のまた夢
を踏まえているのではないかとも思える。
戦国の栄華も戦乱も夢のごとく消え去り、
それらを見てきたであろう比良や伊吹の山々が、今は静かにたたずんでいる。
そんな光景がイメージできる。

※琵琶湖越しに見る彦根城


六番に登場する長命寺は、三泊目の彦根を出港したあと、最終日の四日目の昼休憩に立ち寄る近江八幡にあるが、歌詞にある「西国十番」※注釈2 ではなく、実際は三十一番の札所 (巡礼地の霊場) である。
ではなぜ、“西国十番” としたかについては、“西国三十一番” では語呂が悪かったから、というやや適当な理由だったようだ。
そのせいか、レコードやCDでは、六番がカットされているものが多い。

※近江八幡の長命寺


最後はコメディのようなオチが付いているが、
六番で最も言いたかったのは後半部分
「黄金の波に いざ漕がん   語れ我が友 熱き心」
だろう。
これこそ『琵琶湖周航の歌』の中に一貫して流れるテーマの集大成であり、
そこからは、当時の三高生たちの熱い息吹が今も感じられるようだ。




(1番〜3番)

(1番〜6番 フルコーラス)



【注釈】
1. レコード初版は昭和8年 (1933年)。
なお、以後60組以上の歌手によりカバーされている。
中でも昭和46年 (1971年) の加藤登紀子版は、70万枚の大ヒットになった。

2. 実際の西国十番札所は、京都の宇治にある三室戸寺。


『琵琶湖周航の歌』の研究に携わった多くの研究者の皆さまに、
心から敬意を表させていただきます。