歴史はイメージで作られる | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


7月2日の大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康の正室 築山殿 (瀬名) の最期が描かれた。
これまで物語の世界では、築山殿は悪女として描かれてきたので、
『どうする家康』での理想に生き、理想に死んでいった瀬名像は斬新だった。
もっとも、キャストに有村架純さんを起用した時点で、もうすでに新しいイメージで描くのだろうと予想はしていたが。

※有村架純さん演じる築山殿
(大河ドラマ『どうする家康』より)


歴史上の人物のイメージを形成しているのは、遺されている文献などの史料だが、
史料には “一次史料” と “二次史料” があり、一次史料のほうが重要性が高いとされている。
一次史料とは、当事者がその時に書いた手紙、日記、文書などで、
記述対象について「その時」「その場で」「その人が」の3要素を充たしているものをいうそうだ。
二次史料は、それらの要素を充たさない文献史料で、
第三者が記したものや、後に書かれた記録などが該当する。

築山殿が武田側に内通したため、夫家康の指示で、息子信康とともに殺害されたというのは定説になっている。
それが、築山殿悪女説のもとになっているのだが・・・。
信康の妻は織田信長の娘五徳だったが、二人の夫婦仲は悪く、
五徳が父信長に宛てた手紙で、信康の行状や築山殿の武田内通を知らせたことで事件が発覚したとされている。
今風に言えば、チクッたわけだ。

江戸時代初期に、旗本の大久保忠教 (おおくぼただたか=大久保彦左衛門) が書いた『三河物語』には、徳川家草創期の様子が詳しく記述されている。
その中で、築山殿事件に関しては、
築山殿にやましい点はなかったのだが、
織田信長に詰問された酒井忠次 (家康の家臣) が一言の弁明もせず、その通りと認めてしまった。
そのため家康は、信長から向けられた疑惑と怒りに抗しきれず、築山殿と息子信康を死なせざるを得なかったとしている。
つまり、築山殿は “冤罪” だったという主調だ。

※築山殿の一件で信長に謁見する
大森南朋さん演じる酒井忠次
(大河ドラマ『どうする家康』より)


『三河物語』は、徳川に仕えた人物が、
対象となる時代からあまり時を置かず書いたということで、一次史料といわれている。
しかし、五徳の手紙についてはまったく触れられていないなど、
同じ事件を扱った他の史料に比べて徳川方に偏った内容だと、正確性が疑問視されている。

史料によって見解が分かれるので、築山殿が本当に武田方に内通していたかどうかは謎だが、
大河ドラマ『どうする家康』で悪女でない築山殿像を描いたのは、その固定化されたイメージを覆す新しい試みになったかもしれない。


このように、一次史料といっても書き手の主観が入るので、偏った内容になっている場合がある。
とくに、日記などはそうである。
日記の中には、平安時代の『紫式部日記』や『土佐日記』のように、そのまま古典文学になっている有名なものもあるが、
『土佐日記』は、日記といってもすべてが事実のドキュメンタリーではなく、
作者の紀貫之が、フィクションを交えてユーモアやジョークもふんだんに盛り込んだ “物語” である。
また、当時の出版方法は手書きの写本に頼らざるを得ず、書き写した人の手によって内容が改竄されている場合もある。
なので、そこに書いてあることを、そのまま事実と捉えるのは無理がある。
しかし、書いた人物の性格を測り知ることはできる。

『紫式部日記』で作者の紫式部は、ライバルの清少納言をこっぴどくこき下ろしているし、
一方の清少納言も自身の著作『枕草子』の中で、紫式部の夫になる藤原宣孝や従兄の藤原信経を痛烈に皮肉っている。
ともにシングルマザーで才能をかわれて宮中に出仕するようになった二人は似た境遇なのだが、
性格は正反対と言っていいぐらいに異なっていた。
ちょっとメランコリックなところがあって、文章にも自虐的な表現がある紫式部。
好き嫌いがハッキリしていて、身分の高い人には媚び、そうでない人は見下すような記述が多い清少納言。
千年も前に生きた二人なのに、
その文章からは、それぞれの人となりが鮮明に浮き彫りになっている。

※吉高由里子さん演じる紫式部
(大河ドラマ『光る君へ』より)


いずれにしろ、紫式部や清少納言のように、筆まめに日常を書き留めた人ばかりではないし、
(清少納言の『枕草子』は日記文学ではなく随筆=エッセイ)
書いたとしても、それが遺っていない場合も多い。
となると、第三者が書いた二次史料が頼りなのだが、
二次史料の中には、かなり後世になって書かれたものもあり、信頼性が問われる場合がある。

徳川家康も愛読したといわれる『吾妻鏡』(あづまかがみ) は、源頼朝の鎌倉幕府設立から6代将軍 宗尊親王 (むねたかしんのう) の時代まで約90年間の出来事が書かれている。
編纂されたのは、書かれている出来事のあった時代から50〜120年経った後で、
当時遺っていた記録や伝承に基づいて書かれたものである。
さまざまなエピソードが登場するが、研究者によれば、その信憑性は基にした記録によって差があり、
正確なものもあれば、ほとんど物語に近いものまで玉石混淆だという。

※吾妻鏡を読みふける若き家康
(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』最終回
サプライズ出演した松本潤さん)


さらに、どの時代のものであれ、
時の政権が自らの正当性を強調するために書かせたものが多く、
どうしても、政敵のことは極悪人のように書かれるのが常である。
そのあたりを考慮しないと、正確な歴史は伝わらない。

よく、戦国の魔王のように描かれる織田信長も、冷酷な面ばかりがクローズアップされるが、
戦国の世にあっては、どの武将も多かれ少なかれそういう面を持っていた。
いつ身内にも裏切られるかわからない時代、そのように装って敵も味方も恐れさせることは必要だった。

※岡田准一さん演じる織田信長
(大河ドラマ『どうする家康』より)


羽柴秀吉の正室おね (寧々) が、安土の地に信長を訪ねたことがあった。
その時、おねは秀吉の日頃の生活態度について愚痴をこぼしたようなのだが、
これに対して信長は、おねを慰め、夫婦円満のアドバイスを書いた手紙を後日送っている。
真の信長は、本当は優しい面を持った人物であったことがわかる。

※信長からおねに宛てた手紙
(第一級の一次史料)


新たに重要な史料が発見されたり、研究者によって解釈が変わったりして、これまでの通説が大きく変わることがある。
だから、私が中学や高校で習った歴史の教科書と、現在使われている教科書とでは、内容が違う箇所がある。
これからも研究が進むと、また歴史が変わってしまうだろう。
こうなると、歴史の何を信じればいいのかわからなくなる。

そこへいくと、
歴史上の人物が、登場する物語や芝居の脚色によって、そのイメージが大きく左右されるのは今も昔も変わらないようだ。
今後も、大河ドラマなどの歴史作品で、
新たなキャラクターに生まれ変わった登場人物が活躍することだろう。

歴史はイメージで作られるということか。