愛馬進軍歌 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


かつて、世界の軍隊には、歩兵、砲兵などと並んで騎兵という兵科があった。

これは、文字通り馬に乗って戦う兵士 (騎兵) の部隊で、
機械化が進む以前の近代までの軍隊では、その機動力や攻撃力において、陸戦の主力部隊であった。

日本においても、明治期に西欧にならった軍隊の近代化が進むと騎兵が導入された。
また、騎兵以外でも砲兵隊や輜重 (しちょう=輸送) 隊などで、重火器の牽引、物資の運搬などに馬が多用され、
これら、軍隊で使用される馬は “軍馬” と呼ばれた。
だが、西欧に比べ、日本の軍馬の育成は大きく遅れていた。

※陸軍騎兵学校
明治21年 (1888年) に騎兵の育成の
ため設立された陸軍乗馬学校が前身


明治33年 (1900年)、清 (しん=現在の中国) で、排外主義結社 義和団の武装勢力が北京の列国公使館を包囲するという事件が発生した。(義和団の乱)
日本をはじめ、イギリス、ロシア、アメリカ、フランスなど8ヵ国は、軍隊を派遣してこれを鎮圧したが、
この時、軍馬とともに進軍してきた日本軍を見た列国の兵士は、
「日本軍は “馬のような猛獣” を連れている」
と言ったという。
西欧の調教の行き届いた大型で立派な軍馬に比べ、日本の軍馬は体格も貧弱で去勢もされておらず、発情して暴れ出すと手が付けられなかったのだ。

さらに、明治37年 (1904年) に日露戦争が始まると、日本軍はロシアのコサック騎兵の精強な軍馬を目の当たりにする。
一方、日本の軍馬は、戦地の環境に適応できず、疲弊して倒れるものも多かった。
正攻法では勝ち目はないと判断した騎兵第1旅団長の秋山好古※注釈1は、
騎兵に歩兵や砲兵を随伴させ、当時の日本軍には珍しかった機関銃を使用してコサック騎兵と戦う戦法をとった。

かろうじて日露戦争に勝利した日本だったが、
欧米の軍馬にひけをとらない優秀な軍馬の必要性を痛感したのであった。

※奉天 (現 瀋陽) に入城する日本軍


明治39年 (1906年)、
日本の馬の品種改良と繁殖を推進するため、政府は馬政局を設置した。
海外から優れた馬を輸入して在来種と交配するなどして品種改良を進めた結果、
大正時代頃までには、軍馬のみならず農耕馬を含めた日本の馬の質はかなり向上した。

その後、馬政局はいったん農林省の畜産局に業務を移管して廃止されたが、
昭和に入って、満州事変など中国大陸での軍事行動の活発化により再び設置された。
昭和12年 (1937年) に支那事変 (日中戦争) が起きると、軍馬の需要はいっそう高まり、
馬政局の業務は軍馬の増産へと特化していった。

※東京の歌舞伎座前を行く騎兵
(昭和13年)


大陸での戦闘が長引く中、軍馬に対する国民の理解を深めようと、
昭和15年 (1940年) 、馬政局と陸軍省馬政課が主管となって、馬をテーマにした愛唱歌の制作が企画された。
その詞と曲は広く民間から募集され、
詞は3万9千通あまり、曲は約3千通の応募があった。
この時、選考責任者だったのが、当時 陸軍省馬政課長の職にあった栗林忠道中佐 (当時) である。
(栗林中佐は後に硫黄島守備隊司令官となって、戦史にその名を残すことになる)

栗林中佐は、選考委員である北原白秋、西條八十、土井晩翠、斎藤茂吉らの詩人や、
古関裕而、山田耕作、中山晋平らの作曲家とともに選考にあたった。
選考委員のそうそうたる顔ぶれを見れば、
政府がこの企画にいかに力を入れていたかがわかる。

協議の末、最終的に選ばれたのは、
当時 四国電力社員だった久保井信夫 (歌人) の詞と、沖縄県出身で福岡県で教員をしていた新城正一の曲だった。
その際、栗林中佐自らが添削し、
久保井の詞に “とった手綱に血が通う” という詞を補足したという話が残っている。
栗林中佐は騎兵出身だったので、馬に対するこだわりは人一倍強かったのだ。※注釈2

こうして誕生したのが『愛馬進軍歌』である。
『愛馬進軍歌』
作詞:久保井信夫   作曲:新城正一

(一) 国を出てから 幾月ぞ
        ともに死ぬ気で この馬と
        攻めて進んだ 山や河
        とった手綱に 血が通う

(二) 昨日陥 (おと)した トーチカで
        今日は仮寝の たかいびき
        馬よぐっすり 眠れたか
        明日の戦 (いくさ)は 手強いぞ

(三) 弾丸 (たま) の雨降る 濁流を
        お前たよりに 乗り切って
        つとめ果たした あの時は
        泣いて秣 (まぐさ)を 食わしたぞ

     ※(以下、四~六番省略)


『愛馬進軍歌』は、昭和15年12月に発表され、キングレコードをはじめ各社競作でレコードが発売された。
この歌は、馬への愛情が込められた歌詞とテンポのよい曲が親しまれ、軍隊でも民間でも広く愛唱された。

※愛馬進軍歌のSP盤レコード


この時代、軍馬の購買、育成、補充などの現場業務を担当したのが、陸軍省の外局の一つ軍馬補充部であった。
軍馬補充部は東京本部のほか、北海道や東北地方を中心に各地に支部が置かれており、
馬市で競り落とされた良質な2歳馬が集められてきた。
集められた馬たちは、5歳までここで飼育され、軍馬としての任務に耐え得るよう調教された後、陸軍の各部隊に配属されていった。

大陸での戦火が拡大すると、軍馬補充部で育成した馬だけでは足りず、
一般農家で飼育されていた馬も、軍馬として徴発されるようになった。
昭和16年 (1941年) に太平洋戦争 (大東亜戦争) が勃発すると、
この傾向はより顕著になり、多くの農耕馬が農村から兵士のように “出征” していった。
馬たちは駅で貨車に乗せられる段になると、足を踏んばっていななき、乗るのを嫌がったという。
元の飼い主から離され、戦地に赴く意味を悟ったのであろう。

※北海道の農家から“出征”する馬


そんな馬たちも、部隊に配属されると兵士たちの手厚い扱いに次第に馴れ、軍馬としての任務に忠実に従事していった。
機械化の遅れた日本軍では、軍馬は依然重要な機動力であり、
欧米の軍隊に比べて依存の度合いが高かった。

しかし、軍馬たちを待ち受けていた運命は過酷を極めた。
戦場では、満足に餌を与えられないことや、水を飲ませることもできない状況は日常茶飯事だった。
戦闘で傷付いたり、病気になって死んでいく軍馬も多かった。
それでも軍馬たちは、健気に兵士の指示に従った。
日夜行動をともにする兵士たちにとっても、軍馬は “戦友” であった。
軍馬は絶対、戦死した兵士の亡骸を踏んだり跨 (また) いだりしなかったという。

※人馬一体、進軍する兵士と軍馬


昭和20年 (1945年) 2月、
太平洋戦争の戦局はますます日本に不利となり、小笠原諸島の硫黄島にもアメリカ軍が大挙して上陸してきた。
硫黄島は、中将に昇進していた栗林司令官が2万の将兵とともに守備していたが、
約1ヵ月にわたって数倍のアメリカ軍と激戦を繰り広げた後ついに全滅、栗林中将も戦死した。

硫黄島の戦死者の中には、ロサンゼルスオリンピック (1932年 第10回大会) の馬術競技で、愛馬ウラヌスを駆って金メダルを獲得した西竹一中佐もいた。
西中佐は、馬事公苑で余生を送っていたウラヌスに会い、別れを惜しんでから硫黄島に赴任していたが、
不思議なことに西中佐戦死の1週間後、そのあとを追うように、ウラヌスもこの世を去ったという。

※西竹一中佐と愛馬ウラヌス


戦争にまつわる人と馬のエピソードは数多く残っている。
人も馬も互いに気持ちを通わせて、困難な戦いに臨んだのだ。
終戦までに戦地に駆り出された軍馬は、70万頭とも100万頭ともいわれるが、
そのほとんどが、再び日本に帰ってくることはなかった。




【注釈】
1. “日本騎兵の父” と言われる秋山好古は、
海軍の名参謀だった秋山真之の実兄で、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも登場する。
※NHKドラマ『坂の上の雲』
に描かれた秋山好古 (阿部寛)。

2. 栗林忠道は、この他にも愛馬思想啓蒙の国策映画『暁に祈る』の主題歌の選考にも携わり、作詞家 野村俊夫の作った詞を7回も書き直させた。
このシーンは、NHKの連続テレビ小説『エール』(2020年度前期) 第72・73・75回の中でも描かれていた。
※栗林がモデルの武田少佐 (斎藤歩)。