“鉄底海峡”〈後編〉 | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


第三次ソロモン海戦



第一夜戦

昭和17年 (1942年)11月12日夜半、
ヘンダーソン飛行場を艦砲射撃で使用不能にするべく、
あらたに挺身攻撃隊として編成された第十一戦隊の戦艦『比叡』『霧島』、第十戦隊の軽巡『長良』、そして駆逐艦など14隻からなる日本艦隊は、闇夜のガダルカナル海域に進出した。

この中で、司令官の阿部弘毅中将が乗る旗艦『比叡』は、
観艦式などで、天皇陛下が乗艦する御召艦 (おめしかん) を複数回務めた由緒ある戦艦であった。

※第十一戦隊旗艦 戦艦『比叡』


ヘンダーソン飛行場を射程内に収める地点に到達した日本艦隊は、
主砲に対艦用の徹甲弾から替えて、三式弾を装填した。
三式弾とは一種のクラスター弾で、一つの砲弾の中に、25mm×90mmという小銃弾状の粒弾 (焼夷効果がある) 数百個が詰まっており、
着弾するとそれが飛散して、周囲の物を破壊または焼き払う効果があった。※注釈1
この砲弾で飛行場を広域散布射撃し、
航空機や建造物を粉砕しようというのである。


その頃、ダニエル・J・キャラハン少将指揮のアメリカ海軍第67-4任務部隊 (タスクフォース) は、
旗艦の重巡『サンフランシスコ』をはじめとする重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻の兵力で、
ヘンダーソン飛行場に近い、ガダルカナル島 ルンガ岬沖で警戒任務に就いていた。

第67-4任務部隊旗艦
 重巡洋艦『サンフランシスコ』
 (USS San Francisco, CA-38)


すると、
軽巡『ヘレナ』が、搭載している最新レーダーで、接近してくる日本艦隊らしき艦影を捉えた。
この報は、ただちに旗艦『サンフランシスコ』にも伝えられたが、
キャラハン少将は『サンフランシスコ』のレーダー (やや旧型のものだった) で、これを確認できなかったため、攻撃命令を出すのをためらっていた。

※軽巡洋艦『ヘレナ』
 (USS Helena, CL-50)


その時、
アメリカ艦隊を先導して進んでいた駆逐艦『カッシング』の前方2700mに、
突如、闇の中から日本艦隊の駆逐艦『夕立』と『春雨』が現れた。
これに慌てた『カッシング』が、左に転舵して回避行動に移ったため、後続のアメリカ艦隊は混乱した。

日本艦隊も、飛行場の砲撃直前にもたらされた『夕立』からの「敵発見」の報に驚き、困惑した。
戦艦『比叡』と『霧島』は、砲弾を地上砲撃用に三式弾に替えてしまっていた。
阿部少将は、徹甲弾に変更し直している暇はないと判断、そのままアメリカ艦隊に対しての射撃を命令する。

ここに、世界の海戦史に残る艦隊同士の大乱戦が始まろうとしていた。


『比叡』は、直径110cmの巨大な探照灯を照射して、丁字戦法をとって横に広がったアメリカ艦隊のほぼ全容を把握した。



真っ先にアメリカ艦隊に突撃した駆逐艦『暁』は、探照灯で軽巡『アトランタ』を照射し、魚雷を発射した。
『アトランタ』も探照灯で『暁』を照らしながら砲撃で応戦した。
『暁』は大破炎上して15分後に沈没、座乗の第六駆逐隊司令 山田勇助大佐は戦死した。

※駆逐艦『暁』


『アトランタ』は『比叡』の照射する探照灯にも照らされた。
それを目標に『比叡』や『長良』の発射した砲弾が降り注ぎ、『暁』が沈没前に発射した魚雷2本も左舷に命中。
加えて僚艦『サンフランシスコ』からも誤射された『アトランタ』は、
乗組員670名の三分の一が戦死または行方不明となった。
戦死者の中には、艦隊の次席司令官として乗り組んでいた先のサボ島沖海戦の立役者ノーマン・スコット少将も含まれていた。

戦闘能力を失った『アトランタ』は、左舷に傾斜して漂流をはじめた。(翌日に自沈)

※軽巡洋艦『アトランタ』
(USS Atlanta, CL-51)


アメリカ艦隊の先頭にいた『カッシング』は、
駆逐艦『照月』および『夕立』の正確な射撃を浴び機関が停止、火薬庫が爆発して間もなく沈没。
戦死・行方不明合わせて70名を出した。

そのあとに続いていた『ラフィー』は、
10mの至近距離で『比叡』とすれ違いざまに艦橋を砲撃して阿部司令官を負傷させ、参謀長を戦死させた。
さらに『霧島』に迫った『ラフィー』は、
『比叡』の副砲弾多数『霧島』の主砲弾2発、他の日本艦からの魚雷2本などが命中して轟沈。
艦長以下、乗組員約60名が戦死した。

※駆逐艦『カッシング』
 (USS Cushing, DD-376)

※駆逐艦『ラフィー』
 (USS Laffey, DD-459)


探照灯を照射しながら獅子奮迅の攻撃を続けていた『比叡』だったが、
引き続き『サンフランシスコ』など複数のアメリカ艦から集中攻撃を受け火災が発生、
通信装置と舵も破壊され、戦闘海域からの避退を図る。

『比叡』に魚雷攻撃を行った駆逐艦『ステレット』と『オバノン』の魚雷は命中したものの不発だった。
この時『ステレット』は、『比叡』ほかの日本艦の反撃を受けて炎上、『オバノン』も損傷し、両艦は戦線を離脱した。



一方『霧島』は、
『雷 (いかづち)『電 (いなづま)』『照月』などの駆逐艦とともに、アメリカ艦隊の旗艦『サンフランシスコ』を攻撃。
『霧島』の主砲弾や駆逐艦の魚雷を浴びた『サンフランシスコ』は、約80名が戦死、100名以上が負傷して大破。
艦橋にいた艦隊司令官のキャラハン少将や、艦長ら幹部全員が戦死した。

アメリカ艦隊は司令官と次席司令官の二人を失い、
日本艦隊も旗艦『比叡』が大破して司令官が負傷、戦線から離脱するという事態に、両軍は大いに混乱した。
指揮系統を失った両軍の艦隊は、
各艦が単独あるいは臨時の小グループに分かれて、個別の判断で敵に戦いを挑むという、
歴史家に “こん棒による中世の殴り合い” と表現される未曾有の混戦模様を呈していく。


日付変わって13日午前 (深夜)、
戦いは、いよいよ たけなわとなっていた。
現場海域は、わずか4~5km四方ほどの範囲に、両軍合わせて30隻あまりがひしめき、
通常あり得ない至近距離で、主砲・副砲のほか、高角砲、対空機銃まで水平にして撃ち合った。

探照灯や照明弾が暗夜の海上を照らす中、
砲撃の閃光が明滅し、無数の曳光弾の赤や青の光が交差する。
砲声や機銃の銃声が絶え間なく響き、
海面に上がる水柱は夜目にも白く、艦が爆発して燃える炎は赤々と天を焦がした。
必死の形相で機銃を撃つ敵兵の顔が、炎の明かりに浮かび上がって、はっきり見えるほどだった。



単艦、アメリカ艦隊の真っ只中に突入した駆逐艦『夕立』は連続して魚雷を発射。
うち1本が重巡『ポートランド』右舷後尾に命中して舵を破壊、同艦は翌朝まで右旋回し続けた。
さらに突進を続けた『夕立』は、アメリカ艦隊の巡洋艦、駆逐艦などに命中弾を与えたが、
やがて自らも被弾して大破し、航行不能になった。
 (後刻、『夕立』は放棄されて漂流しているところをアメリカ艦が砲撃で沈めた)

※駆逐艦『夕立』


『夕立』を迎え撃って砲撃していた軽巡『ジュノー』は、駆逐艦『天津風』の魚雷が命中して大破、落伍していった。
その『天津風』には、軽巡『ヘレナ』の6インチ砲弾2発が命中して45名が戦死、舵と射撃装置が損傷して戦闘不能となった。

乱戦の中、僚艦と衝突しそうになって急停止した駆逐艦『バートン』は、
そこを日本駆逐艦から魚雷で狙い撃ちされ、2本が命中して轟沈。
乗組員約160名が艦と運命をともにした。

※駆逐艦『バートン』
 (USS Barton, DD-599)


また、『モンセン』も、日本艦隊からメッタ撃ちに遭い大破 (後に沈没) し、
『アーロンワード』は航行不能に陥っていた。
日本側も、駆逐艦『春雨』『雷』が大破するなどして戦線を離脱した。

午前0時16分、
戦死した司令官に代わって艦隊の指揮を執っていた『ヘレナ』艦長ギルバート・フーバー大佐は、戦闘中止を決定。
すでに組織としての統率を欠いていたアメリカ艦隊であったが、
『サンフランシスコ』『ヘレナ』『ジュノー』など残存艦は、満身創痍で南方海上へ退いた。
(撤退中の『ジュノー』は、日本潜水艦『伊26』の発射した魚雷が命中して沈没。夜戦と合わせて、680名が戦死した)

※軽巡洋艦『ジュノー』
 (USS Juneau, CL-52)


午前1時25分、
日本艦隊も、北方への避退を決定。
その時、旗艦『比叡』は鎮火に成功したものの損傷した舵は復旧せず、直進できない状態にあった。
艦隊司令官の阿部少将は駆逐艦『雪風』に移乗したが、
救援に到着した『照月』など駆逐艦4隻で、なんとか『比叡』を曳航しようと試みていた。 

しかし、夜が明けると、
『比叡』にとどめを刺すべく大挙してアメリカ軍機が飛来。
舵が利かず、大きく旋回を繰り返す『比叡』は、ヘンダーソン飛行場からの基地航空隊や、空母『エンタープライズ』の艦載機の波状攻撃を受け、
複数の魚雷が命中して機関が停止、黒煙を上げながらかろうじて浮いている状態となった。
時間の経過とともに、
『雪風』『時雨 (しぐれ)』など、随伴する護衛駆逐艦にも空襲による被害が累加していった。

艦長 西田正雄大佐は艦内にとどまり、
御召艦でもある『比叡』を、なんとか応急修理して脱出させようとしていたが、
復旧の見込みなしと判断された13日午後に自沈を決断。
「総員退艦、キングストン弁※注釈2 開け」
を下令した。

敵機の来襲を警戒しながら『比叡』乗組員を収容した駆逐艦5隻は、
戦死者180名とともに沈みゆく『比叡』を残して現場海域を離れた。
日本軍にとって、これが太平洋戦争で最初の戦艦喪失となった。



第二夜戦

阿部中将の艦隊は、アメリカ艦隊との交戦で戦艦『比叡』を失った上、所期の目的であるヘンダーソン飛行場砲撃に失敗した。
しかし、
日本軍はガダルカナル島増援を諦めず、13日午後、第三十八師団の将兵を乗せた11隻の輸送船団が、ショートランド泊地を出航していた。

14日 午前2時 (深夜)、
阿部艦隊の失敗を補う形で、後続部隊の第七戦隊 (重巡『鈴谷』『摩耶』等) が、
幸運にもアメリカ艦隊に遭遇することなく、ヘンダーソン飛行場砲撃に成功したが、
重巡の20センチ砲による砲撃の効果は限定的で、とうてい同飛行場を使用不能にするには至らなかった。

ガダルカナル方面のアメリカ軍航空兵力は、依然健在だった。
ガダルカナル島へ向けて進んでいた日本軍輸送船団は、14日の朝になると、アメリカ軍航空部隊の攻撃にさらされ、
11隻中6隻が沈没、1隻が中破して引き返すという大損害を受けた。
輸送船団は、残る4隻のみがガダルカナル島へ向かった。

この結果に、
あくまで、威力の大きい大口径の戦艦の主砲で飛行場を叩き、使用不能にするという作戦に固執する日本軍は、
近藤信竹中将の第二艦隊と、13日の夜戦で沈没や損傷を免れた残存艦を合わせて再編し、
戦艦『霧島』のほか、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦9隻からなる挺身攻撃隊を編成した。

※戦艦『霧島』

※重巡『愛宕』艦上より、
同『高雄』、戦艦『霧島』と続く単縦陣を見る。


11月14日、午後9時20分、
近藤中将指揮の日本艦隊 (挺身攻撃隊) は4隊に分かれ、
月が沈んだ闇夜のサボ島沖を一路ガダルカナル島へ向けて航行していた。
すると、
旗艦の重巡『愛宕』や戦艦『霧島』などの本隊から離れて進んでいた軽巡『川内 (せんだい)』と駆逐艦2隻が突如砲撃を受けた。

砲撃してきたのは、レーダーで日本艦隊の接近を察知したウィリス・A・リー少将指揮の戦艦2隻と護衛の駆逐艦4隻からなるアメリカ海軍第64任務部隊であった。

アメリカ艦隊の新鋭戦艦『ワシントン』と『サウスダコタ』は、最新レーダーと、『霧島』の36センチ砲を上回る40センチ砲9門をそれぞれ装備していた。

※戦艦『ワシントン』
 (USS Washington, BB-56)

※戦艦『サウスダコタ』
 (USS South Dakota, BB-57)


最初の砲撃で『川内』らに命中弾はなかったが、『川内』は駆逐艦2隻とともに煙幕を張って避退した。
この砲撃戦の音を聞いた日本艦隊本隊は、近藤中将が「総員戦闘配置」を下令、
これをもって各艦応戦態勢に入った。

午後9時30分、
単独で本隊と別ルートを進撃していた駆逐艦『綾波』が、アメリカ艦隊の前面に躍り出る形となった。
『綾波』は一隻でアメリカ艦隊に斬り込んだ。
『綾波』の12.7センチ砲の砲弾は、駆逐艦『プレストン』と『ウォーク』に命中、火災を生じさせ、
戦艦『サウスダコタ』の艦橋にも1発が命中して、一時同艦の電力を停止させた。(後に復旧)

※駆逐艦『綾波』


その『綾波』は、アメリカ駆逐艦隊と『サウスダコタ』の反撃を一身に浴びる形になり、命中弾多数を受けた。 
しかし、果敢にも『綾波』は攻撃を続け、
発射した魚雷は、炎上中の『ウォーク』左舷に命中して積んでいた爆雷を誘爆させ、同艦は爆沈。
『ベンハム』も『綾波』の魚雷で艦首を吹き飛ばされ、戦闘不能になった。(翌日撤退中に沈没)

※駆逐艦『ベンハム』
 (USS Benham, DD-397)


そこに、日本艦隊の前衛 軽巡『長良』と駆逐艦4隻の部隊が到着して戦闘に参加。
『綾波』の砲撃で燃えていた『プレストン』を砲撃して沈めたほか、
『グウィン』を大破させ、同艦は戦線を離脱した。

集中攻撃を浴びて航行不能に陥った『綾波』は漂流しはじめ、甲板上の火災も鎮火が難しくなっていた。
生存していた乗組員は、艦長の命令で海上に逃れ、僚艦『浦波』に救助された。
勇戦奮闘した『綾波』だが、やがて火災で弾薬庫が爆発して沈没した。
『綾波』の戦死者は42名だった。

午後9時50分、
日本艦隊本隊がアメリカ艦隊に探照灯を照射、
浮かび上がった艦影が、新型戦艦であることを確認した。
『高雄』『愛宕』『霧島』の順で単縦陣を組んだ日本艦隊と、『サウスダコタ』がすれ違いながら砲撃戦が展開する。



『霧島』と『サウスダコタ』の撃ち合いは、
日本海軍にとって、日露戦争 (1904年) の日本海海戦以来、得意の艦隊決戦を行える絶好の機会となったが、
『霧島』が装填していた砲弾が、またしても飛行場砲撃用の三式弾であったことが、悔いを千載に残すことになった。

艦隊決戦を想定して猛訓練に励んできた日本艦隊の正確な射撃は、次々に『サウスダコタ』に命中した。
しかし、
対艦用の徹甲弾と違って、粒弾を飛散させて周囲の物を破壊する目的の三式弾では、
分厚い戦艦の装甲を貫くことができない。

『サウスダコタ』の艦上構造物は、巨大なショットガンの猛射をくらったように吹き飛ばされ、あるいは蜂の巣にされ、戦死者38名と数十名の負傷者を出したが、
三式弾では舷側に穴があくことはないため沈没は免れた。
それでも『サウスダコタ』は、大破して戦闘能力を失ったため、戦線離脱を余儀なくされた。

代わって、無傷で残っていたアメリカ艦隊のもう一隻の戦艦『ワシントン』が、
距離8200m からレーダー射撃で『霧島』への砲撃を開始した。

※40センチ主砲で『霧島』を砲撃する『ワシントン』


1斉射目は至近弾となったが命中しなかった。
『ワシントン』は照明弾を打ち上げ、あたりを真昼のように明るく照らし、
2斉射、3斉射と砲撃を加えて『霧島』に命中させた。
『霧島』も主砲で反撃した。
また、日本駆逐艦による魚雷攻撃も行われたが、いずれも『ワシントン』に命中しなかった。

『ワシントン』は日本艦隊との距離を詰め、
なおも『霧島』に砲撃を加えて命中弾を与えていった。
『霧島』の被害は拡大し、大爆発を起こして炎上、右舷に傾斜した。
日付が替わった15日午前1時25分、
『霧島』は200名以上の戦死者とともに沈没した。
艦長以下、1100名余の生存者は、3隻の駆逐艦に救助され、
旗艦『愛宕』ほかの残存艦とともに撤退した。

日本艦隊は13日と15日の夜戦で2隻の戦艦を失ったことになり、軍首脳を意気消沈させた。
そして、結局、ヘンダーソン飛行場砲撃を行えず、同飛行場の機能を完全に奪うことに失敗した。

この一戦は夜戦を得意とする日本艦隊を、アメリカ艦隊がレーダー射撃で撃ち破った戦いでもあった。
これによりアメリカ軍は、前線部隊への最新レーダー配備を加速していった。


その頃、
4隻だけ残った日本軍輸送船団は、ガダルカナル島タサファロンガにたどり着き、海岸に強行接岸して揚陸作業を始めた。
しかし、
兵員2000名と若干の物資を揚陸した時点で、夜が明けて周囲が明るくなり、アメリカ軍機が来襲。
その攻撃で輸送船は破壊され、揚陸途中だった重火器と食料の大半が焼き払われてしまった。
第三十八師団の増派は事実上失敗に終わった。

※米軍機の攻撃で炎上する日本の輸送船団


以後、ガダルカナル島の日本軍守備隊は、武器弾薬はおろか食料にも事欠き、
飢餓とマラリアなど熱帯特有の病気に悩まされ、戦死者以上の餓死者、病死者を出すことになる。

※タサファロンガ海岸に擱座した
輸送船『鬼怒川丸』
 (現在は水没している)





以上、
鉄底海峡と呼ばれる海域で行われた三つの有名な海戦をご紹介したが、
これはほんの一例に過ぎない。
この海域で行われた戦闘は、大小200回以上に及び、今も多くの艦船が沈んでいる。

近年、そこは絶好のダイビングスポットとして人気が高い。
沈没艦船を目当てに、世界各国からダイバーたちが訪れるようになった。
かつて、激戦が繰り広げられた戦場が、いまや観光地とは、時代の移り変わりを感じる。

だが、忘れないでほしい。
海底の艦船とともに、多くの戦死者たちも眠っていることを。
願わくば、静かにしておいてほしい。

鉄底海峡の沈没艦船は、
哀しい戦争の歴史を語る人類の遺産であるとともに、
英霊たちの墓標でもあるのだから。


 おわり



【注釈】
1. 本来は対空攻撃用に開発された。

2. 船底の取水管に取り付けられた止水弁。
これを開けると海水が流入して船は沈没する。

【おことわり】
海戦が夜戦だったので、各艦の画像ら暗めにしてあります。