残った櫓 (やぐら) | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。

以前、熊本城を見学した時、
その石垣の威容に圧倒されたのを覚えている。

まさに中世の巨大な要塞であったことが偲ばれるとともに、近世になってからも、
明治10年(1877年)の西南戦争の際、ここを拠点とする明治新政府軍が、何倍もの兵力の西郷軍の猛攻に耐え、ついに陥落することがなかったということが納得できた。




(“武者返し”と呼ばれる独特の勾配をもつ熊本城の石垣。北十八間櫓付近から天守閣を望む地震前の写真)



その石垣の中に、丸くへこんだような痕がある石があり、ガイドさんから火災の痕だと説明を受けた。
火炎の熱で、石の表面が剥離した形跡とのことだった。

でも、戦国時代、熊本城が炎上するような合戦なんてあっただろうか?
太平洋戦争中の空襲でも焼けなかったはずだし…
と、思っていたら、
明治になってから、西南戦争の少し前、原因不明の火災が発生し、天守閣など本丸の建造物のほとんどを焼失したのだそうだ。

今建っている天守閣は、昭和35年(1960年)に再建されたものだった。
そのあと、天守閣に上ってみたが、
なるほど、西南戦争の時の砲弾や銃弾などの史料が展示してあったり、歴史資料館のようになっていた。




(今回の地震の前に撮影された熊本城内)



城内の他の建造物も、一部の塀や櫓(やぐら)を除いては、ほとんどが後世再建されたものらしい。
加藤清正公の建造した時代から残っているのは、石垣ぐらいだとも聞いたが、
その石垣も、時代とともに部分的に補修してきたそうだ。




(建設された年代によって石垣の積み方にも違いが見られる)



今回の、平成26年熊本地震では、熊本城も大きな被害を受けた。
天守閣も屋根瓦が落ち、鯱も落下して行方不明になった。
城内の建造物は、再建されたものも、築城した頃から残る重要文化財のものも多数が倒壊し、石垣もあちこちで崩れた。

戦国以来、肥後熊本のシンボルとしてそびえてきた熊本城。
その変わり果てた姿が報道されると、熊本の人のみならず、日本中の人々がショックを受けた。


しかし、昔からその姿を留めてきた重要文化財の宇土櫓(うとやぐら)は、壁の漆喰が一部剥がれたのみで、ほぼ無傷で残っていた。



(続櫓は倒壊したが、手前左の宇土櫓はほぼ無傷で残った)


およそ400年前、加藤清正公の時代、
当時の築城技術の粋を集めて建設された櫓は、震度5強~6強の強震(前震・本震時の熊本市中央区の震度)にも耐えたのだ。      

天守閣も、明治の火災に遭わずに残っていれば、今回の地震でも、きっとびくともせずに建っていただろう。

なんという堅牢さだろうか。
鉄骨もコンクリートもない時代に、当時の職人たちは、耐震、免震という技術を経験と伝承によって身に付けていたのだ。

あらためて、古来、つちかわれてきた日本の建築技術に脱帽する思いだった。




(宇土櫓の全容:地震前に撮影された写真)



これは誇れることだと思う。
誰がなんと言おうと、誇るべきことだと思う。

そして、熊本城の宇土櫓は、

熊本と日本人の不屈の精神を表す
復興のシンボルとして

今後も、
熊本にそびえ続けてほしい。





【おことわり】
掲載した写真は、「Wikipedia」「文化庁・文化遺産オンライン」「毎日新聞デジタル版」「熊本城公式HP」等から、非営利目的の個人的評論の参考資料として引用させていただきました。