夜が長くなって、空を見上げることが嫌でも多くなる季節が巡って来た。
季節は秋、屋外でそんなふうにじいっと上ばかり見上げていると体は芯から冷えてしまうというのにどうしても止められない。白い丸い月の中に、いつもひとりきりの淋しい兎が佇んでいるのをみるたびになんだか居ても立ってもいられない気分ででもどうすることも出来やしないのに目が離せない。
そんな言葉を彼は早口で告げると、一気にお茶を飲み干す。
いれたばかりのアールグレイはまだ熱いのに、よく舌を火傷しないものだとのんびり考えながらまだポットにたくさん残っているお茶をカップに注ぎ足す。
「兎、そんなに好きだったんだ?」
道ですれ違う犬にはいつもどんな時にも目を輝かせていたから好きだと知っていたけれど、そんなものまで好きだったなんて少し意外だ。まあ可愛いけれど飼いたいとか思わないし。
「好きとか、別にそういうわけじゃなくて。というか、おまえそこらにいる兎と同列にみてるだろ」
「ちがうの?白い兎、確かイトコの家では飼ってたけど、あまり頭良さそうじゃなかったよ」
「違う、俺が気になるのは月の兎、だから」
だって兎は兎じゃないか、形が兎だから同じことなのにと思っているのを察したらしい彼は溜息をついた。
「月の兎の話、知らないのか」
「知らない、なにそれ?」
無知なことは悪いことじゃないって知っている。別に知らなくてもいいことは一杯あるから、おまえはそれでいいんだなんて馬鹿にされているわけでもなく良く言われたし、気にもならない。物知りな彼の話を聞くことは、だから本当に楽しい、すぐに忘れてしまうものもあるけれど、そんなことも彼は気にしないから。
「猿と狐と兎が、飢え死にしそうな老人を助けようとして、猿と狐は獲物を獲ってあげた。
でも兎は何も獲ることができない。それで、自分が火に飛び込んでその身を食べさせようとした。
その行いに免じて神さまは月に兎を籠めたんだって、みんなが見習うように」
「へえ、兎可哀想。そんなの食べる気にならないよねえ」
「…まあ、そこじゃないんだけど。でも可哀想だと思うだろ?
しかもひとりでずうっと月に残されたまんまだ。
いくら捨身の善行を見習えとか言われても、そんなのは兎には関係ないのに」
また見えない月を探すように彼は天井のあたりに視線を彷徨わす。
やさしいひとだなと知ってはいたけれど、そんなものにまで心を砕くなんて、彼のことの方が心配になる。疲れてしまわないのか、と。
秋の夜じっと空を眺めているだろう彼の姿がはっきりと思い浮かぶ。
冷たい指先を時々自分の熱で暖めながら、じっとひとり立ち尽くすその姿。
「これからはちゃんと兎をみるね、この話は忘れないから。
それから今度、一緒に兎を見ようよ。
ひとりぼっち同士じゃ淋しいのは無くならないでしょ?」
いつか兎にも友達が増えるかもしれない。
それが彼の望みならぜひ叶うといい。
そう言って笑いかけたら、彼も小さく笑って
おまえどっかずれているんだよな、なんて言いながらも嬉しそうだった。
そうだ、兎をみる夜には甘い紅茶をポットにつめて、それから甘いお菓子もたくさん持って行こう。
兎みたいに、自分もきっとなにもできないから、おなかが空いたひとにあっても困らないように。
Commando Blue