この国の精神  武士道(5)まとめ -地球温暖化- | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神  武士道(5)まとめ -地球温暖化-

秋 隆三

 

<地球温暖化>

 

地球温暖化の欺瞞、地球温暖化の政治的利用については、これまでも何度も説明してきた。科学として地球温暖化と二酸化炭素との関係を説明することはできない。

 11月2日(2022年)のニュースは次のようなものである。

「大気中の二酸化炭素レベルの上昇は植物の窒素濃度を低下させ、作物の栄養価を低下させることが科学誌『Trends in Plant Science』に2日発表された研究で明らかになった。

フランスの植物科学研究所の研究者によると、二酸化炭素濃度が上昇するにつれ、二酸化炭素を酸素に変えて植物にエネルギーを与える光合成が活発になり、土壌中のミネラルへの依存度が低下して、地面から吸収する窒素、リン、鉄の量が減少するという。

窒素が不足すると作物の組織形成が妨げられ、タンパク質の形成過程が遅くなる。これはかなりのタンパク質不足につながる恐れがあり、世界で約10億人に影響をおよぼし、筋肉の萎縮から肝不全、骨の脆弱化までさまざまな症状を引き起こす可能性がある。

米や小麦などの作物は栄養不足の影響を最も受けるため、フランス国立科学研究センター研究員のアントワーヌ・マーティンは、食品の品質と世界の食料安全保障に影響をおよぼすと指摘している」

 

二酸化炭素濃度の上昇により光合成が活発になり、根からの吸収力が低下して結果としてタンパク質の生成に影響を及ぼすというものであるが、よくもこんな論文を発表したものだ。掲載した科学誌のインチキ度合いが丸見えである。

光合成は、大きくは二つの過程から成る。二酸化炭素を酸素に変えるのではないことは、大学教養レベルの基礎知識である。光合成の第1過程は、根から吸収した水分と光子と葉緑体内のあるタンパク質(ゆがんだイス:理化学研究所によって発見された)によって水素と酸素に分離し、この段階で酸素を放出する。二酸化炭素は酸素の放出とは無関係である。遊離電子と水素イオンが、植物の細胞内のATP(アデノシン三燐酸)とともにエネルギー活動によって二酸化炭素からセルロース、糖分を作る。タンパク質を作るのはこれらのエネルギー活動に伴う細胞内の他の作用である。

 二酸化炭素濃度が上昇すると、光合成の第1段階の活動が活発になり、そのためにはエントロピーである水分量を多く必要とする。水分を多く吸収するということは、窒素やミネラルの吸収量も多くなる。土壌中の窒素、ミネラル成分が少ないと植物の組織形成のバランスが崩れる。有名な話は、福建省のほうれん草に含まれるセレンが消えた例である。吸収量を阻害するのではなく急激な成長に対して相対的に土壌中の成分が不足するのである。

 

 二酸化炭素と気候変動に関する地球史については、「二酸化炭素濃度と気候変動史」(大嶋和雄、石油技術協会誌 第56巻 第4号 (平成3年7月))に詳細に論じられている。1990年から現代に至る30年間の間で、これほどの論文は見られない。この論文の中で、2万年前の氷河期の二酸化炭素濃度が250PPM以下であったことが示されている。氷河期が終わり、地球が温暖化し始め、農業生産が始まるほぼ1万年前から産業革命直前まで、地球の二酸化炭素濃度は300PPMを超えたことがない。このことが何を意味しているかと言えば、植物の生育にとっては、限界に近いぎりぎりのところで生きていたということである。植物は、二酸化炭素濃度が150PPMになると餓死する。前述のように二酸化炭素は、植物にとって食料に相当する。二酸化炭素濃度が、250PPMから300PPMであると、ちょっとした気候変動によっても生育に大きく影響する。稲や麦等の穀物の品種改良が進んだことから、生産量が飛躍的に向上したことは確かであるが、それと同時に二酸化炭素濃度が高くなったことも生産量増加に影響している。19世紀までの世界の文明は、度々、飢饉に襲われている。干害、冷害は頻繁に発生し、回復も遅い。世界人口が100億に達する21世紀では、二酸化炭素濃度を400PPMから600PPM程度に維持しておかなければ、食料生産が間に合わなくなる。

農業生産、食料生産からみた二酸化炭素濃度については、IPCCにも見られないばかりか、世界の農業科学者からも何の見解も示されていない。SDGsのためには、二酸化炭素濃度を現在以上に維持する必要があるのではないだろうか。

 

地球温暖化問題を政治問題やビジネスだけで捉えるととんでもないことになる。

IPCCという組織の設立には、いくつかの疑惑があることは、いくつか報道されている。汚職、中国共産党との関係、犯罪者等々、陰謀論ではなく事実として捉える必要もある。

 

エジプトでCOP27が開かれているが、ヨーロッパ閣僚の何とも切ない弁明(ロシアからのエネルギー供給)を聞いていると、地球温暖化問題が政治問題そのものであることを改めて確信させられる。それにしてもだ、子供の教育を通してこれほどまでに地球温暖化を洗脳してきたかと思うと、恐怖心を抱かざるを得ない。

 

武士道について、もう少し踏み込んでまとめてみることにしよう。

 

<武士道とは技術思想である>

 

武士道とは技術思想だと述べた。科学的ではないことは確かだが、何故技術思想なのかである。武術とは、技術そのものであるからである。スポーツだけではなく、絵画・音楽、踊りといった芸術分野も含めて、身体を使うものは卓越した技術なしには、その道を達成することは不可能である。武術は、剣術や弓術もあるが、より広義には軍学、兵学といった戦術・戦略も含まれる。相手に勝つためには、技術を磨くことは勿論だが、敵を知り己を知り、その上で勝つための緻密な思考を必要とする。言い換えれば、勝つための戦略であり計画であり設計である。思考と技術の両方を必要とする。これは、現代の工学においても同様である。思考、設計、試作、評価、製造、保守の繰り返しである。こういった武術・兵法は、戦国時代から江戸初期にかけて繰り返し実践されて磨かれた。

技術思想の本質は、「嘘がつけない」ということである。思考過程で嘘を紛れ込ませ、信じ込むと必ず負ける。これも現代に通ずる。技術者は嘘をつかない。しかし、科学者は嘘をつく。気候温暖化を叫ぶ科学者の例をみればおわかりだろう。技術者が嘘をつけば、飛行機が落っこち、橋が壊れる。科学者が嘘をついても、すぐには被害が発生しない。だから科学者は嘘をつく。

江戸時代を通して、人口はほぼ2,500万人である。このうち武士階級の人口(家族を含む)は、7%程度の170万人程度であり、家族を除くと120万人程度であったと推定される。支配階級である武士が、嘘のつけない技術的思考を物心の付いたころからたたき込まれ、さらに四書の素読があるとすれば、理屈抜きで「嘘のつけない」思考形態に洗脳されることになる。嘘のつけない思考様式を持った支配階級を、200年以上にわたって生産し続けた国家というものが歴史上存在したであろうか。それも、近世においてである。

この国が世界に類のない「武士道」を生み出した背景には、この技術思想の徹底があったと考えられる。

 

<武士道は無の思想である>

江戸時代前期の殉死と腹切りは、流行になるほどに武士を支配した。人命の軽さと言えばそれまでだが、武士の死生観において「無の思想」は絶対的なものであったと思われる。「無」は、禅の思想である。禅は、自分とは何か、己とは何かを考えよと言う。考えてもそう簡単にわかるものではない。自分を構成する情報・知識をそぎ落とすと何が残るか。感情だけが残る。思考ではないからである。

新渡戸稲造が、トーマス・カーライルの「衣服の哲学」に心酔したのも頷ける。自我を見つめれば、衣服のような情報と知識で蔽われているだけで本質が見えないのだから、禅の教えと同じではないかとなる。現象だけをみれば同じように見えるが、根本は全く異なる。禅は、無我という。自我は存在しないのである。無我は、感情だけが残った状態の自分なのである。何もないのではない。ここに陽明学の心即理が重なる。自分の存在は、自分の為ではない。人の為に自己が存在する。それこそが、感情が存在する意味なのである。人の為に涙する。孔子が説いた最高の得である「仁」こそが、人の人たる存在の意味であり、自己が存在する意味なのである。

この無の思想が江戸時代前期の「自死の流行」とともに武士階級に浸透した。しかし、孔子が説いた仁の思想ではなく、より狭い意味での仁、人の為になすという意味である。

 

「嘘のつけない」技術思想と、無の思想・人の為になす仁の思想が融合した「武士道」という精神は、支配階級である武士階級における特権的思想となった。人が人を支配し統治する思想としては、理想的思想であり恐らくこれ以上の思想は、民主主義を除いては存在しないと思われる。

現代日本の統治機構は、民主主義ではあるが体制としては社会主義も多く、かといって欧米型でもなく中国共産主義でもない。こんなあやふやな体制を維持し続けることが出来る背景には、このような武士道精神が今に生きているとしか言い様がない。

 

<武士道とは褒め殺しの思想である>

さて、褒め殺しの思想である。元禄時代以後の戯曲、歌舞伎、江戸時代後期から明治初期にかけての落語、講談等を通して、忠臣蔵は日本人の心の支えとも言える物語になった。さらには、名君、名奉行について今もって時代ドラマの筆頭である。武士の理想とはこうあるべきだという物語を数百年に亘って作り続けてきた。すごい国だと思いませんか。武士とはこうあるべきだと言われ続け、そういう武士が実際に登場すると一大の英雄のようにもてはやされる。江戸時代の庶民は、褒め殺しによって支配階級である武士の横暴をコントロールする方法を身につけた。社会学的にはこういった社会システムを何とかいうのだろうが、残念ながら私にはその知識がない。社会の善と悪を、勧善懲悪物語で、単純明快に伝えるという手法は、極めて有効な手段である。勧善懲悪は、いわば褒め殺しの思想といって良い。

社会システムとしての褒め殺しの手法は、現代日本にも生きている。それが証拠に、韓国時代ドラマと日本時代ドラマを比較すれば一目瞭然であろう。日本の方が単純明快である。韓国ドラマの心理的複雑さは、嫌気がさしてくる。

 

 

武士道精神は、江戸時代前期のほぼ100年で完成し、それが、江戸人の粋の精神、職人魂、商人根性等々、社会階級のあらゆるところに波及していくのである。

現代日本においても様々な社会で、こういった精神の片鱗を見ることができるが、果たして将来の日本人にどれだけ受け継がれていくであろうか。

2022/11/16