森田商会。台東区東上野3-5。2013(平成25)年7月14日

下谷神社の裏側の通りに残る出桁造りの二軒長屋と看板建築の家並み。下谷神社の周辺は空襲の被害を免れた地域で、戦後80年が経っても戦前に建てられた商店・家内工業所・住宅がけっこう残っている。写真の家並みは今も変っていない。
写真左の二軒長屋は「中柳建設株式会社」と、テントや看板などの工事の「森田商会」が入っている。その右(西)は看板建築が5棟並ぶ。戦前の建物には見えないが、改修されているのだろう。中華料理の「福寿」はいつ頃の開業だか分らないが、2019年9月で閉店した。その告知の張り紙には「老巧化のため」「先代の頃より」とあり、あるいは建物が建替えになるのだろうか。


海岸ビルヂング。兵庫県神戸市中央区海岸通3-1。1992(平成4)年8月5日

海岸通りのメリケン波止場前交差点から西へ250m程のところに、正面を海岸通りに向けた明治末に建てられたビルが残っている。貿易会社兼松商店(現・兼松)の本店として1911(明治44)年に建設された。「日豪館」という名称だった。「日豪会館」という資料もある。兼松商店(兼松房治郎)の貿易業がオーストラリアからの羊毛の輸入を主としたところからの命名。
設計は河合浩蔵で、海岸通り沿いの「海岸ビル」(現・神戸メリケンビル)と同じ建築家だ。名称は「海岸ビルヂング」と「海岸ビル」で区別できる。正面は花崗岩とタイル貼りなのでRC造のように見えるが構造はレンガ造3階建。横の奥と裏側はレンガがそのまま見えている。正面のデザインについて『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「正面玄関両脇の装飾は直線化、幾何学化された、ややセセッション風であるが、2階と3階との間の装飾は様式主義的な名残が見られる。大正7年の海岸ビル(三井物産神戸支店)よりも重くドロクサイ感がある。毎日新聞社と三つ並べてみると、一貫してセセッション風のモチーフを追求していることがうかがえる」としている。
1945年の空襲で内部が焼け、屋根も焼失した。竣工時の姿は『兼松房次郎の伝記』で見ることができる。戦後、兼松は日豪館を現在のオーナーに売って東京へ移る。改修が施されたのは昭和25年で、『建築紹介・建築探訪録>海岸ビルヂング』のコメントによると、「日建設計工務の設計管理で耐震補強を含む改修が実施」「駒形断面のスレート葺屋根からコンクリート造陸屋根に改造」「一部階段通路を廃するなどした上で耐震壁を追加」したという。その効果があって、1995(平成7)年の阪神淡路大震災では被害は軽くて済んだ。それにしても、レンガ造の3階建のビルが倒壊せずに残ったのは素晴らしい。


隆源ビル。兵庫県神戸市中央区海岸通2-3。1992(平成4)年8月5日

海岸通りの三栄ビル(橋本汽船)があった横の道路を北へいって、乙仲通(おつなかどおり)との交差点角にあった建物。『近代建築撮影日記>震災前の神戸 その2』の1995(平成7)年の阪神淡路大震災後の写真では目立った被害は受けなかったように見える。しばらく放置された後取り壊されたという。現在はTimesの駐車場になっている。残っていれば、隣の昭和ビルと共に、レトロな裏通りとして注目されるようになったらしい乙仲通の中心的名所になったのではないだろうか。
明治末から大正期に建てられたRC造レンガ風タイル張りのビルに見えるが、『近代建築撮影日記』では、柱は木造で「木骨煉瓦」としている。古い航空写真を見ると寄棟屋根だ。


上右写真は今も残る「昭和ビル」の裏側。玄関の上に入居している会社が書き出してあったが、12社を数えた。


三栄ビル。兵庫県神戸市中央区海岸通2-1。1992(平成4)年8月5日

写真のビルは海岸通りの神戸郵船ビル(現・神戸メリケンビル)の一つ西の街区にあったビル。現在は「カイセイ神戸海岸通2」(2005年7月築、11階地下1階建、88戸)というマンショに替わっている。
『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では、「朝日ビル(橋本汽船本社)、設計・施行=竹中工務店、建築年=大正6年(1917)、鉄筋コンクリート造3階建(4階建の間違い?)」。『兵庫県2』では、名称が「三栄ビル」である。写真でも「SANYEI GROUP」(サンエイインターナショナル株式会社)の広告塔があるように、「三栄産業株式会社」からの名称だろう。
近代建築撮影日記>震災前の神戸 その2』によれば、1995(平成7)年の阪神淡路大震災では破損はしなかったが、2005年頃までに取り壊されたという。

堂島ビルヂング>100年史』によると、橋本汽船の元祖は九州の金物商・橋本雄造(ゆうぞう)の「橋本商店」が1877(明治10)年に開設した船舶部である。日清戦争後にはロシア軍艦の引揚げ、中国との定期航路など事業を拡大する。一方、橋本雄造の兄・半平の次男が喜造(きぞう)といい、雄造の養子になって、橋本商店で働くようになる。喜造は1906(明治39)年に、佐世保に「橋本喜造商店」を立ち上げて独立する。当時は日露戦争後の不況だったが、中古船を次々に買い受け、南洋諸島に目を向けて成功する。第一次世界大戦の勃発で海運市場は活況に転じる。
1916(大正5)年に、事業拡大のために神戸へ移転する。1918(大正7)年、橋本汽船株式会社を設立し、自社ビル「橋本汽船ビル」を建設する。設計は藤井厚二(こうじ)としている。「アメリカ流のオフィスビルの普及を見越したテストケースでもあり、この頃、堂島ビルヂングに結実する高層ビルの計画を立てる」とある。
神戸のビルがいつまで「本社ビル」だったかは不明だ。橋本汽船の事業は海運業の他に大阪市西天満の堂島ビルの運用の二本柱であったらしい。現在は堂島ビルが会社の所在地である。『堂島ビルヂング>100年史』の年表には「1991平成3年、パナマ船籍を売却、海運会社としての運営を休止」とある。


オール商会。兵庫県神戸市中央区波止場町(はとばちょう)3。1992(平成4)年8月5日

海岸通りのメリケン波止場前交差点の南西角に建っているビル。建物の詳細は分らない。
近代建築Watch>旧オール商会ビル』によると、「オール商会(Aall & Company Ltd)」は、ノルウェイ資本の海運会社で、その後「丸亀組」という海運会社が使うようになった。丸亀組に替わったのはいつだか知らないが、ストリートビューの2009年の画像では、海岸通り側の三角形の看板を、「marukame」と文字を変えただけで使っている。
SVの2017年では「中谷商運」になった。船舶業務部の事務所になっているらしい。
玄関が階段状の枠になっているが、左の部分が円柱状になっているところに注目が集まっているようだ。


神戸郵船ビル別館。兵庫県神戸市中央区海岸通1-1。1992(平成4)年8月5日

神戸郵船ビル(現・神戸メリケンビル)の西に隣接して建っていたビル。郵船ビル本館では手狭になったため建てられたのだろうが、その時期などの詳細は不明。昭和になってからだろうか。2階上のコーニスと軒の水平線が本館と合っているので、本館の外観に合わせたデザインかと思うとそうでもないようで、本館よりも壁が平面的で簡略化されている。
写真では耐震工事のフェンスで囲われているが、実際に工事が行なわれたのだろうか。建物が解体されたのは、阪神淡路大震災の前なのか後なのか?
cocoDoco>神戸郵船ビル別館』に、昭和27年撮影と思われる写真が載っている。装飾の詳細やビルの裾がよく分る。


神戸郵船ビル別館、本館。1992(平成4)年8月5日


神戸郵船ビル。兵庫県神戸市中央区海岸通1-1。1992(平成4)年8月5日

日本郵船神戸支店として、1918(大正7)年に建てられた。設計は曽禰中条建築事務所(曾禰達蔵・中條精一郎)、施行は大阪橋本組で、鉄骨レンガ造・鉄筋コンクリート造3階建。
1945年の神戸大空襲により、正面上部のバロックドームと銅葺きの屋根を焼失した。戦後、安井建築設計事務所(安井武雄)の設計で修復・改修が行なわれ、昭和28年に完成した(思いつくまま>旧日本郵船神戸支店)。
1994年に耐震補強工事が行なわれた。そのため1995年の阪神淡路大震災では被害は軽微で済んだという。写真は耐震工事が始まった頃のものらしい。
2019年4月に日本港運株式会社に売却され、名称も「神戸メリケンビル」に変更された。


 


海岸ビル。兵庫県神戸市中央区海岸通3。1992(平成4)年8月5日

『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「海岸ビル(三井物産神戸支店)、設計=河合浩蔵(かわいこうぞう、1856-1934)、施行=竹中工務店、建築年=大正7年(1918)、レンガ・鉄筋コンクリート造4階建(地下1階)」。解説では「開口部の上部などの装飾は、細部まで幾何学化された直線構成のセセッション風である。内部もクラシックとセセッションと混在している」。
『ウィキペディア』によれば、河合浩蔵は工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに学んだ、日本では最初期の建築家だ。1886(明治19)年、工部省臨時建築局で官庁集中計画に関わり、議院建築の研究のため妻木頼黄、渡辺譲らとともにドイツに留学してエンデ・ベックマン事務所に勤務した。官庁集中計画は、霞が関の法務省旧本館(1895明治28年)がその名残である。1897年内務省を退官、神戸地方裁判所を設計した縁で神戸に移住した。1905年、河合建築事務所を開設した。



左:南側(海岸通り側)、右:東側(明石町筋側)1992(平成4)年8月5日

1995(平成7)年の阪神淡路大震災では全壊の認定を受けて改築を余儀なくされた。1998(平成10)年、15階建の高層ビルに建替えられたが、4階までの外壁は旧建物の壁が使われて復元された。外観を見る限り旧建物が残っているように見える。商船三井ビルと海岸ビルが並ぶ景観が保存されたわけで、評価していい仕事だと思う。とはいえ、旧態そのままというわけにはいかないだろうと、子細に比べてみると、地下駐車場への出入り口と1階の窓6箇所が小さな出入り口に替わっていた。



商船三井ビル。兵庫県神戸市中央区海岸通5
1992(平成4)年8月5日

神戸の近代建築といえば、外観の優雅さからまずこのビルが挙げられるように思う。『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「大阪商船三井船舶神戸支店(大阪商船神戸支店)設計=渡辺節建築事務所、施行=大林組、建築年=大正11年(1922年4月)、構造=鉄筋コンクリート造7階(地下1階)建、所在地=中央区海岸通15」。解説では「外観は、1階部分を荒い石積み、2階から6階まで縦目地を見せない二面切り、その上にコーニスとアチックを載せ、西南部の玄関上部は、他より高めた半円形とし目立たせている。このようにベース、軀体、コーニスと三つのアクセントを持つ外観の仕上げは、アメリカン・クラシック・ビルの系統を引くものと考えられる。」
『ウィキペディア>商船三井ビルディング』から補足すると、「アメリカルネサンス様式のこのビルは渡辺節の設計、内藤多仲の構造設計によるもの。……渡辺はこのビルを設計するにあたって欧米を視察し、それにより得たものを生かして、テラコッタを外壁に、プラスターを内装に使用する等、日本初となる技術を数多く導入することに成功している。」とある。
渡辺は積極的に新技法を導入した革新的な建築家かというと、むしろ様式を重んじた人だという。『近代建築再見(下巻)』(エクスナレッジ発行、2002年、1400円+税)に、『歴史を飾る建築』(『日刊建築通信(昭和38年)』)から引用した次の文章が載っている。「只いいたい事は遠いエジプト時代から今日に至っても尚飽かれずに賞讃されるのを見て、余りにも奇をてらう新建築が果たして遠い将来の後世の迄も建築歴史を飾り得るかに疑問を持つものである。」本書では続いて「アメリカ商業建築の経済的合理主義を学び取り、これを日本で実践しようとしたのだ。それには、当時の日本の玄関神戸港に建つこのビルで実践するのは、これからの日本の商業建築に良き先例を示すことになる、という自負をこめて為したのだ。」としている。


新港ビル。兵庫県神戸市中央区海岸通8。1992(平成4)年8月5日

1939(昭和14)年2月に川崎汽船本社ビルとして竣工した鉄筋コンクリート造8階地下1階建のビル。中庭が2つある日形平面をしている。設計は木下建築事務所(木下益次郎)、施行は竹中工務店。
1930年代後半では様式建築の時代ではなくなっていたと思うが、このビルも容積の大きな事もあるだろうが合理的なデザインである。東南角の塔屋がアールデコ風の装飾で飾っていて目を引く。
木下益次郎については、ネットでは、1893年工手学校(現・工学院大学)卒業、1913年東京海上の営繕課のトップとして勤務、東京丸の内の東京海上ビル旧館(1918年竣工)の現場監督、甲南病院(神戸市東灘区)を設計、横浜の馬車道大津ビルを設計、1943年死去、といった断片的なことしか分らない。