幸生荘。文京区千駄木5-4。2000(平成12)年5月5日

団子坂の通りにあった駒込電話局の裏手である。蔦で覆われた家は幸生荘というアパートで、その右は1986年の地図に「中村銘美堂」となっている家。下の写真の奥に写っているのが駒込電話局。上の写真の左端に写っている家は、下の写真の左手前の家だろう。トタン張りの壁の錆び具合が同じだ。
goo地図の昭和22年の航空写真には写っているが、周囲は焼け野原から家が建ち始めたように見えるので、写真の家も戦後すぐに建てたアパートと借家、あるいは建売住宅ではないかと思う。
駒込電話局とその後方横の駐車場になっていたところは、現在は「ブリリアウェリス文京千駄木」(2011.01竣工、9階建て108戸)というマンションが建っている。



駒込電話局横の民家。文京区千駄木5-4。2000(平成12)年5月5日

現在のマンションの前に「青鞜社発祥の地」の説明板が立っている。青鞜社は平塚らいてうが中心になって1911(明治44)年に結成された女性文学者の集まりで、雑誌『青鞜』を発行した。その最初の事務所になったのが、発起人の一人である物集(もずめ)和子の家だった。当時の住所は本郷区駒込林町9番地。翌年5月までそこが拠点になった。
『青鞜』(瀬戸内晴美著、中公文庫、昭和62年、680円、単行本は昭和59年発行)には、明治44年6月1日の第一回の会合の場所を、気のいい和子が引き受けてくれて物集家に決まったという。「和子の父は『広分庫』の編纂で有名な物集高見博士だった。この頃が丁度その仕事に没頭している最中で、仕事を助ける弟子たちが大勢出入りしていたが、邸が広大なので、和子の部屋で行われる会合はひっそりとして他の部屋の物音さえ全く聞こえてこない。」と書かれている。
明治45年4月、第2巻4号が発売禁止になって、青鞜社は物集家にいられなくなり、駒込蓬莱町の勝林寺へ移ったとしている。

 

コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

 

郷愁にかられます (fumiplum)
2014-07-10 08:51:37
昨年貴ブログに出会い時々うかがわせていただいています。素敵なブログです。
私は渡米して8年目。。頑張っているんだけど、写真を拝見しているとム~っと古い町並みの暑い夏、コンクリ壁の長屋、そのカビのような香りが流れてくるようで、どうしようもなく帰りたくなります。これからも楽しみにしています。どこの町もよく知っている場所なのでとても楽しいです。素敵なコーナーをありがとうございます。

 

>fumiplum様 (流一)
2014-07-11 09:25:20
永く日本を離れるなどということのない私には、外から日本を眺めるという視点はありませんが、fumiplumさんの感じることは分かるような気がします。木造で壁をモルタルで塗り込めたアパートなどは日本でしか見られないものでしょうね。
今後とも当ブログをよろしくお願いします。