
共栄ビル(築地共栄市場)。中央区築地4-7。1986(昭和61)年5月
晴海通りと新大橋通りが交差する築地4丁目交差点の角にあった建物。大通りどうしの交差点で銀座の間近でもあるので憶えている人もあると思う。現在は「築地KYビル」に建て替わって、その竣工が1988年だから、撮影後じきに取り壊されたのだろう。
共栄ビルには築地場外と同じく、海産物卸の店が30軒近く入っていたらしい。共栄会というのがそれらの店で組織された協同組合である。ところが戦前(昭和7~11年)の火保図を見ると「林病院」である。驚いて写真を見直すことになった。普通の看板建築と考えていたが、病院のファサードだったか! 『昭和二十年東京地図』(文・西井和夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房、1986年、2500円)には2階の廊下と階段を写した写真が載っている。病院だったと知るとこの写真が実にしっくりくる。『goo地図』の昔の航空写真を見ると、建物は新大橋通りとその横丁に沿ってL字型平面の寄棟屋根の建物が中心で、中庭を残して、裏側に別棟が何棟か建っていたようだ。ちなみにここの明治の地図には「林病院」の記載がある。
というわけで、文献に当たるのは後回しにして、ネット検索で次のようなサイトを見つけた。
『 kotobank.jp>林曄』
『 築地場外市場> 築地歴史館』の「築地昔話」の『地域再開発の先駆けとなる―礒野義男(石辰)』
『 幸太のコラム>久野久子の交通事故(2011.07.10)』
これらのサイトによると、林病院の創設者は林曄(はやしはじめ)という整形外科学者。江戸の出身で1866(慶応2)年生まれ、1944(昭和19)年死去――ぼくが生まれたときには江戸時代に生まれたこの人はまだ生存していた――。林鶯渓(はやしおうけい)という江戸末期の儒学者の養子になっている。鶯渓は林大学頭とつながる人らしいがここでは省略する。帝国大学を卒業してドイツに留学。明治31年に林病院を開業した。日本外科学界や日本整形外科学界の創立にくわわった。京橋区医師会の初代会長でもあった。
病院がいつ閉院したのか判らないが、林曄が亡くなったため、とも考えられる。
戦後すぐ、病院だった建物に食品を扱う店が営業を始め、数も増えて共栄会を組織する。その共栄会が林病院を買い取ったのはいつのことだったのだろう。1階には30数店舗、2階はその事務所、住居、倉庫などになっていたという。
などということが判ってくると、写真が1枚しかないのが残念である。せめて新大橋通り側の側面がどうだったか知りたくなる。