「そうかぁ、お前には兄がいるんだね」
島原ではあまり過去の話はしない。
それがこんな話になったのは、昨晩禿の少女が家族に会いたいと泣いた事を彼に話したから。
その流れで自分にも兄がいたと話したのだ。
その少女の話を聞いた時、会った事のない少女の為に、色素の薄い瞳は伏せられた。
そういう優しさが、この人の素敵なところだと思う。
そして少しばかり自分の話をして、ふと気になった。
「慶喜さんには、ご兄弟はおられるんですか?」
それを聞いた慶喜さんは、一瞬驚いた様な顔。
でも少し考えた様子の後、すぐにいつもの笑顔に戻って答えてくれた。
「…あぁ、いるよ。俺にも、兄がね」
その時ピクリと、机に向かう黒い羽織が揺れたのが視界の端に見えた様な。
だがそんな些末な事よりも話の続きを聞きたいと思った。
「どんな方なんですか?」
目を輝かせただろう私の問いに、慶喜さんは楽しそうに微笑む。
「そうだねぇ…何というか、朝から晩まで口煩くてね。早く起きろ、食べ物は残すな、本を読め、武芸に励め、早く寝ろ…という感じでね。最早兄というより小姑みたいだろう?」
「…誰が小姑や」
私達などいないかのごとく仕事に打ち込んでいた秋斉さんが、カタリと筆を置いて振り向いた。
何故か鋭い眼差しで慶喜さんを見やっている。
「やだなぁ、何で怒るのさ秋斉。今のは俺の兄上の話だよ?秋斉には関係ないじゃないか」
「………」
この微妙な空気ったらない。
秋斉さんから発せられる眼光は鋭く、彼と彼の部屋から漂う涼しげな香りが手伝い、それは極寒を思わせた。
でも、今のお話を聞いて…私は思う。
「お兄さんは、慶喜さんの事がとても大切だったんですね」
きっとどれも、慶喜さんを想って言ってくれた言葉ですもんね?
純粋に思った事を口にすると、慶喜さんは兄弟の有無を尋ねられた時よりも驚いた顔をして…
それから少し照れ臭そうに微笑んで煙管を弄りながら、
「そうだね。煩いと思う事もあるけど…俺にとって、とても大切な兄上だよ」
と、優しく言った。
その笑顔と心の籠った言葉に、ぽかぽかとした気持ちになった。
少し、家族が懐かしく思ってしまう。
ところが、訪れたのはまたも沈黙。
もしかすると彼の兄弟の話は駄目だったのかと、
口元を扇子で隠したままの秋斉さんへ話しかけてみる。
「あの、秋斉さんにはご兄弟は…」
「おりまへん」
全て言い終える前にピシャリと言い切られた。
「わてにはその兄君の様に手のかかる弟なんぞ、おりまへんえ」
「秋斉…」
駄目なのはこの話題そのものだったらしい。
しかし何故だろう、慶喜さんの瞳がとても切ない。
秋斉さんはチラリと彼に目をやった後、自分の湯呑みを見やり
「…あぁ、茶が無うなってもうたね。桜はん、悪いけど新しく淹れてきて貰えんやろか」
と私にそれを寄越した。
「ぁ、はい!すぐに!」
何だか彼らしくない、不自然な感じがしたものの、全員分の湯呑みを取った私は、お茶を淹れなおすべく急いで台所へと向かったのだった。
「ねぇ秋斉」
「なんどすか」
「あの子は気付いてなかったけど、少し耳が赤……痛!」
ぺしり、と。
小気味良い音が部屋に響いた。