世間一般とか、普通とかの基準 | どうでもいいはなし

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どうでもいい日常のこと、思ったことを適当に書く自己中心的ブログ。
※長文が予想されます。苦手な人はゴメン※

お雛様に対しての子どもの日と思っているところがあるから、子どもの日に何かを意識したことは無いし、祝ってもらったこともない。

 

 

小さい頃には、子どもの日にはジジババに色々買ってもらって持てはやされた、凄く可愛がれてた自慢を、急に同僚がし始めた。

ふーん、へー、そう。

適当に聞き流していたけれど、調子に乗って喋り続けるのが鬱陶しいのもあって、そんな記憶無いなー(お雛様にお祝いしてもらってたし)と返しておいた。

すると、こんな返答が。

 

「子どもの日にジジババに祝ってもらえないとか、お前嫌われてたんだなw

何やったらジジババにそんなに嫌われるんだよwww」

 

何だか楽しそうなので、こんなふうに返しておいた。

 

嫁イビリの一環でね、母が憎けりゃ孫まで憎いんでしょ。

孫差別凄い人で、男孫だけベタベタ可愛がって、何か気持ち悪かった。

 

引きつった笑顔で固まる同僚に、ちょっとウケた (゚∀゚)

でも、事実。

父実家に行っても、まともに喋ったことがなくて、いつもいるけど誰か知らない人という認識だった。

家事を色々やってるから、お手伝いさん?とか、本気で思ってた。

悪口も相当言われてたみたいだけど、曾祖母と母が耳に入れないよう気を付けてくれていたお陰か、そういう記憶は一切ない。

本当に、小学生になるまで、曾祖母が祖母だと思ってて、お手伝いさんが祖母だと思ってなかった (゚∀゚)

 

という具合なので、本当に子どもの日に祝ってもらうとか、全く無し。

同居していた母方祖母は、記念日関わらず可愛がってくれていたし、気にしたこともない。

 

「そういう特殊な事例じゃなくて、世間一般では子どものお祝いの日で、可愛がられるのが普通なんだよ!」

 

特殊事例って www

 

世間一般って言葉、大嫌いです。

型に嵌めたがる人が好む言葉だと思ってます。

そして、それが人の思考や視野を狭めると思ってます。

 

高校の頃の後悔。

部活の関係で仲良くなった別の学校の友達が、家族関係の話をしてくれたことがある。

 

兄だけが可愛くて、お前なんていつ家を出て行っても構わないと、常々言う。

自分用のおやつと思って買った物も、気が付けば親に取り上げられ、目の前でニヤニヤしながら兄が食べる。

ご飯でも何でも、目の前で母親と兄がニヤニヤしながら、「お前の分なんかない」と笑いながら食べる。

 

「こういう家庭でねー」と笑いながら話す友達に、そんな親も兄弟もありえない、本気で言ってる?と言ってしまったことがある。

私の頭の中では、”世間一般”の家族像を思い浮かべたとき、友達の話す内容は物語の中の世界でしかなくて、一瞬だけ、ほんの一瞬だけだけど、話盛り上げるための嘘か?と思ってしまった。

 

別の高校で、放課後の部活に一か月ほど顔を合わせるだけの友達。

だから、彼女の学校生活や日常は、全く知らない。

ただ、ポツリと呟いた彼女の一言に、事実なんだと思わざるを得なかった。

 

「これが普通、他の家もこんな感じって思ってないとやってられない」

 

当時はネットも今ほど普及しておらず、身の回りに、こういう子がいた場合はどうすればいいのかを、相談出来る場所も無かった。

本人も状況の異常性を分かっていて、じっと耐えていて、今私たちが出来ることなんて、何も思いつかなかった。

今、切に願うのは、当時その子と付き合っていた彼氏と、無事に添い遂げていてくれと。

「卒業したら結婚しよう、あんな家からいつでも連れ出してやるって言ってくれてるんだー」と、軽く頬を赤らめながら、締めに話してくれて、救われる道はあるんだなと、少し安心したような気がした。

 

本当に。

”世間一般”で子供を虐待するとか、あり得ないし、あってはいけない話。

だけど、実際にあって、事件もあって、小さな命が傷つけられ、奪われている。

それでも、直面しない限りはテレビの中の話であって、自分には無関係と思ってしまうものなんだよね。

 

ある程度の基準や指標として、世間一般という平均的な物の見方は大事だと思ってます。

ただ、何かにつけて”世間一般”とか”普通は”といって、それ以外は認めません!受け入れません!みたいな考え方をする人って…どういう世界に生きてるのかなと。

本当に目の前で事が起こっても、現実的じゃないとか言って逃げがちな気がして。

 

別の高校の友達の話も、聞いたときは本当に現実味が無さすぎて、言葉を無くして、色々混乱した。

一緒に聞いていた他の子も、いやいやそんな親いないでしょと、笑っていた。

世間一般の型にはまると、見えるものも見えなくなる。

挙句、見えているのに見えないふりしたり。

それが物凄く怖い。

 

高校の友達は、最後に惚気話を始めたために、その場にいた全員で「彼氏と結婚しろ!大切に想ってくれる人がいて何よりだ、幸せになれ!」と万歳三唱しましたよ!

その場にいた全員が、しっかり現実と向き合っていて、誰一人として「あり得ない、嘘に決まってる」なんて思わなかったことも、ほんの少し救い。

そして、10年以上経った後、バイト情報誌のスタッフ一同が写された写真の目立つところに、彼女の顔があったのを見て、元気そうなのも確認したので、きっと大丈夫。

 

世間一般って、ある種の偏見。

 

 

あーはいはい、私は小さい頃に、父方の祖母には大切になんて微塵もされてきませんでしたよ。

それは私が何かしたわけでもない、母が何かしたわけでもない、存在自体が嫌悪されてたってだけの話です。

ただもういてほしくないって、それだけです。

こっちは何もしてませんよ、母に産んでもらった命です。

ただそれだけです。

それだけで、もう存在を無いものにされてるだけです、母が嫌いという理由だけで。

母も父と結婚しただけなのに、ねぇ。

 

で、これが特殊で、世間一般ではない話と言って、そんな話をしたいんじゃないと耳を塞ぐんだ?

 

「ジジババに祝ってもらえないとか、何やったwww」と笑いながら聞いてくるから、事実を言ってるだけなのに。

思ったような話じゃないと、拒絶するんだ?

世間一般な話じゃないから?

 

ふーん、へー、そう。

了見狭すぎ!

 

同僚はきっと、私が嫌われるような何か大層なことをやらかして、それをネタに馬鹿にしたかったんだと思います (゚∀゚)

あくまで私の事実を話したら、何だか気分を害したらしく、その後で仕事のことで無茶な難癖付けて怒り出したし。

自分勝手も大概にしろと言いたいです(´・ω・`)

 

まー、とにかく。

一定の基準は大切だけど、自分の了見を狭くするような固定概念は捨てるに越したことがないなぁと、そんなお話。

 

子どもの日、小さなお子さんがいる家庭では、どんな一日をお過ごしでしょうか? (゚∀゚)