≪ 京都通になれる雑学知識 ≫
第 2 章
古都・京都にある寺社の謎!
- Kyoto 54 -
【 瑞 雲 院 】
あらゆる歴史書に「裏切り者」と
書かれる武将がいます。
その武将は・・・
まだ19歳という若さで
相手方に寝返りを決断をしたが、
自分の決断に悩みながら今、
京の瑞雲院の墓地に眠っています。
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関ヶ原の戦いで
西軍、東軍の勝敗を決した
青年武将
堀川五条交差点の歩道橋から見ると、
北西側に大きな黒い屋根が目に付きます。
日蓮宗瑞雲院である。
この寺にある武将が眠っています。
事前に電話をすれば、
拝観が出来ます!
境内の墓地に案内されて、その武将の墓の前に立つ。
墓は小ぶりである。
「瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士」という法名が
刻まれています。
法名の中に
「前黄門」・「秀」・「詮」の字に
武将の名前のヒントがあります。
関ヶ原の戦いで
石田三成率いる西軍に参加していたが、
徳川家康率いる東軍に内応していた
小早川秀秋のことである。
小早川秀秋は、
「裏切り者」というレッテルを貼られ、
関ヶ原後、心中の懊悩は、
精神に異常をきたすほどであったという。
戦後2年経った1602(慶長7)年10月18日、
岡山で没した。
21歳という若い死だった。
亡骸は火葬され、瑞雲院に納骨された。
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光秀謀叛の年に
生まれた秀秋の宿命なのか
小早川秀秋は、
実は・・・
高台院・おねに甥にあたる人物である。
木下家定の五男として誕生した。
後世、
秀秋が裏切り者になったのは、
生まれた年が悪かったのだとの声をあります。
そう!
明智光秀が織田信長を急襲した「本能寺の変」の、
まさにその年だったからだ。
主君を裏切った光秀とダブらせた話である。
秀秋は秀吉、おねに可愛がれ、
若くして順調に出征街道を歩んだ。
1592(文禄元)年、
中納言に昇進した。
しかし、
1593(文禄2)年、
秀吉に跡取りの秀頼が誕生したのを契機に、
秀秋は小早川家に養子に出された。
この一件が秀秋にとって
内心忸怩たるものがあったのだろうか?
秀秋が西軍を裏切った理由の1つに、
淀殿と秀頼に対する怨恨があったのでないか?
強ち否定は出来ない理由である。
☆小早川秀秋とは・・・☆
小早川 秀秋 とは・・・
安土桃山時代の大名。
丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。
名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名している。
若年ながら豊臣秀吉の身内として重きをなしたが、
関ヶ原の戦いでは戦闘中に東軍に寝返り
徳川家康に勝利をもたらす契機を作ったことで
知られている人物である。
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★ 龍虎 俊輔 ★
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