≪ 京都通になれる雑学知識 ≫
第 2 章
古都・京都にある寺社の謎!
- Kyoto 46 -
【 妙 心 寺 】
〔 塔 頭・大 通 院 〕
一豊の妻・千代の霊屋を見守る
小さな墓
できた妻は夫を出世させる。
山内一豊は妻・千代の大きな支えがあってこそ、
土佐一国の城主にまで出世を遂げた。
その夫婦の陰に信頼厚い一人の家臣がいた。
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山内一豊・千代夫妻の
連携プレーに家臣孫作あり!
妙心寺塔頭大通院は、
季節の特別拝観期間以外は、残念ながら、
普段は拝観することが出来ません。
ちょうど本坊の北側にあり、
この寺は、
山内一豊・千代の子である湘南国師が中興し、
山内家の菩提寺となっています。
山内一豊は、
特別に大きな武功を上げた武将ではなかったが、
関ヶ原合戦後、
土佐24万石の大名となった。
この抜擢には一豊本人の努力もあったが、
妻・千代の内助の功が大きかったという。
千代の内助の功と言えば、
金10枚を一豊に渡し、
馬を買わせた話はあまりにも有名だ。
実は・・・
もう1つ良い話があるんです!
関ヶ原合戦直前のことだ!
石田三成らの動きを知らせるために、
千代は東国にいた一豊に手紙をしたためた。
その手紙は、
山内家の家臣・田中孫作が、編笠のあご紐により込み、
一豊に届けたという話である。
この書は、「編笠の密書」と呼ばれている。
歴史上では、
「笠の緒の文」と言われています。
この書には・・・
大坂方の動きに加えて、
文面の最後に
「家康様にお味方なさいませ。
私のことは心配なさらずに・・・」
と書き添えてあった。
孫作は、
下野国での軍議「小山評定」の場にいた一豊に、
無事手渡した。
一豊はこの密書の封も切らずに家康に渡したという。
これが家康の胸襟を開き、
合戦後の論功行賞につながったのである。
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千代の死に殉じた?
孫作は、今も千代を見守る
大通院霊屋は、
1633(寛永10)年、
湘南国師が母・千代の17回忌に造った御堂で、
「見性閣」といいます。
この「見性閣」という名前は、
千代の法号、見性院から付けられています。
御堂内には、
無縫塔が二基並んでいます。
右側が一豊、左側が千代のもので、
二人仲睦まじく見えますし、
無縫塔の大きさも、夫妻同等に見えます。
立派な霊屋に隠れるように、
霊屋よりやや下がった左手に小さな墓が
ポツンと立っています。
田中孫作の名前が読み取れます。
そこに命日が刻んである。
「元和三年十二月四日」
元和3年は、1617年。
12月4日は、千代の命日と同日である。
異論異説がありますが、
つまり
孫作は千代があの世へ旅立ったのを見届けた後、
自ら命を絶ったのではないか?
尚、
この田中孫作には、
もう1つのエピソードがあるんです。
それは・・・
関ヶ原合戦において、
西軍から東軍に寝返った小早川秀秋に対し、
東軍に味方するよう説得した人物としても
知られているんです。
☆妙心寺とは・・・☆
妙心寺とは・・・
京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。
山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。
開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。
日本にある臨済宗寺院約6000か寺のうち、
約3500か寺を妙心寺派で占める。
近世に再建された三門、仏殿、法堂などの
中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、
一大寺院群を形成している。
平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、
京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。
-交通アクセス-
北総門へは・・・
京都駅前から市バス26系統に乗車し41分、
妙心寺北門前下車、徒歩1分。
南総門へは・・・
京都駅からJR山陰本線に乗車し11分、
花園駅下車、徒歩5分。
-拝 観 料-
境内拝観自由
法堂・浴室は¥500
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★ 龍虎 俊輔 ★
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