《 京都通になれる雑学知識 》
第2章
古都・京都にある寺社の謎
- Kyoto 33 -
【 本 能 寺 】
本能寺の火難と、
消えた織田信長の遺骸
信長に油断があった!
明智光秀の軍勢13000に、
本能寺を取り囲まれ、襲撃された!
人間50年!
信長は炎上する本能寺で何を思っていたのか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
天下取り目前の織田信長、
本能寺に倒れる!
明智光秀が本能寺に宿泊していた
織田信長を急襲した「本能寺の変」は、
1582(天正10)年6月2日早暁の起きた事変である。
光秀はなぜ?
信長を襲撃したのか?
様々な謎解きがなされてきているが・・・
この「本能寺の変」も、
本能寺が繰り返した火難の1つだった。
本能寺には火難があると知っていたなら、
信長はココに宿泊していなかったのでは?
天下取りを目前に迫っていた時だっただけに、
身辺警護は万全を期して、
細心の注意を払う必要があったと言える。
それしなかった信長には、
油断があったとしか言えないだろう!
この事変の舞台となった
本能寺は現在、
寺町通御池下ルに総門があります。
しかし、
信長が襲撃された時は、
六角通と西洞院通が交差するあたりから
油小路通錦小路付近に及ぶ広大な寺域で、
信長は、
その客殿に宿泊していたと
推測されています。
残念ながらココで信長は、最期を迎えてしまったのだが、
本能寺の変での炎上は、
本能寺にとっては、
なんと!
4度目の火難だったのである。
4度の火難にあった本能寺は、
1415(応永22)年、
油小路高辻と五条坊門との間に創建された。
創建当時は、『本応寺』と称されていた。
創建から3年後の1418(応永25)年、
火災で焼失!
- 最初の火難である。
そして、
1429(永享元)年に
2度目の火難に遭い、再建された。
そして、
1433(永享5)年、
また火難に遭い、再建された。
この3度目の再建後に、
寺号が「本能寺」と改称されたのである。
- この寺号の改称にいて -
元々の寺号である『本応寺』とは・・・
「本門八品相応能弘之寺」という
長い名前から3文字を抜粋されたものだ!
その後、
一般に
宗派の法華宗を広く知らしめるために
「大日本國平城像門再興本勝迹劣本門八品能弘之大霊場」という
また一段と長い寺名へと改称された。
誰が聞いても長すぎるという非難を浴び、
以前と同じく3文字を抜粋して、
「本能寺」と
名付けられたのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
本能寺のこれも歴史!
平均75年に一度の火難
3度目の再建から
安泰の日々が続いていた本能寺であったが、
1536(天文5)年、
比叡山延暦寺と教義論争に巻き込まれ、
伽藍が壊されてしまった。
そして、
1545(天文14)年、
4度目の復興で再建された。
本能寺の波瀾は、
これでも収まらなかったのだ!
そう!
1582(天正10)年6月2日に
その時を迎えたのである。
本能寺にとっては、4度目の火難である!
焼失と再建を
いつまで繰り返すのだろうか?
と思ったに違いない。
本能寺にとっては切実の問題ですかねぇ~
本能寺の変が起きた年の秋、
再建に着手する際、
豊臣秀吉の都市計画により、
境内地が、現在地の寺町通に移された。
これで何とか落ち着くだろう!
と誰もが思ったに違いない。
しかし!
江戸時代になり、
天明の大火で
5度目の炎上で焼失、再建。
元治の大火で
6度目の炎上で焼失、再建。
本能寺の資料によると・・・
平均75年に1度の割合で焼失しているという。
こんなに火難が続くのには
何か原因があるのではないか?
どこに原因があるのか?
本能寺もこう考えたのだ。
そして、
寺名に原因があると!
どこか?
「能」の字のツクリにあるという結論に達した。
【ヒ】が縦に重なっているではないか!
これが原因だ!
ということで
本能寺では「ヒが去る」と
ツクリを変えたのである。
表記を変えたことで
火難は去ったそうです。
-------------
本能寺の変では・・・
最大の謎が残ってるんです!
炎上する中、信長は自害して果てたが、
その亡骸は、一体どこへ行ったのか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
阿弥陀寺住職清玉上人が
持ち去った信長の遺骸!
襲撃した光秀は、
信長の遺骸を発見できなかったという。
信長の墓とされるものは各地にありますが、
寺町通今出川上ルの
蓮台山阿弥陀寺にあるのが、
本物であるという。
この阿弥陀寺で、
こんな話を聞いたことがあります。
1582年当時の住職であった清玉上人が、
本能寺の変を聞きつけるとすぐに、
塔頭にいる僧20人程を引き連れて本能寺に向かったという。
信長をはじめ家臣たちの遺骸を法衣に包み、
本能寺から持ち去り、埋葬したという話だ。
光秀の軍勢がいる中、
遺骸を持ち去ることなんて出来たのか?
容易に持ち去ることが出来たのか?
疑わざるを得なかった。
だが、
清玉上人は、
巧妙に光秀の軍勢を斯いて逃げたという。
そして
当時、
本能寺には近くあった南蛮寺への抜け穴があり、
そこを通って逃げたという逸話も。
当時の阿弥陀寺は、
船岡山の西の蓮台野にあったというから、
逃げるにしても
相当の距離があったに違いない。
ともあれ、
信長の遺骸を敵の目に晒すことなく、
埋葬されたことになる。
阿弥陀寺には、
信長と嫡男・信忠の木像の他、
信長が使用していた旗が残されています。
この出来事から431年。
本能寺の変は
今でも忘れられることのない歴史ミステリーだ
ということは、
間違いないでしょう!
☆本能寺とは・・・☆
本能寺とは・・・
京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山。
織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。
塔頭が7院ある。
(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)
☆阿弥陀寺とは・・・☆
阿弥陀寺とは・・・
京都市上京区にある浄土宗の寺院である。
山号は蓮台山。院号は総見院。
本尊は阿弥陀如来。
☆南蛮寺とは・・・☆
南蛮寺とは・・・
戦国時代~江戸初期まで、
すなわちキリスト教伝来(1549年)から徳川幕府による
キリスト教禁教までの期間、日本に建てられた教会堂の通称。
1576年イエズス会によって京都に建てられた教会堂、
いわゆる「都の南蛮寺」をさす。
都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」であり、
献堂ミサも会堂の落成に先立つ
1576年8月15日(聖母被昇天の祝日)に行われた。
教会堂の所在地は
中京区姥柳町(蛸薬師通室町西入ル)付近と
推定されています。
☆本能寺の変とは・・・☆
本能寺の変とは・・・
1582年6月21日(天正10年6月2日)、
織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、
京都・本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い、
自殺させたクーデターのことである。
-Wikipediaより-
※※※※※※※※※※※
★ 龍虎 俊輔 ★
※※※※※※※※※※※