《 居都通になれる雑学知識 》
第 1 章
古都・京都の歴史を知る街歩き
- Kyoto 22 -
漱石が俳句に詠んだ
“ 川向こうの女 ”
1892(明治25)年、
夏目漱石は正岡子規と二人で、初めて京都を訪れた。
以来4度京都の旅を体験し、小説を発表した。
また男と女の絶妙の立ち位置を、
句に表している。
◆ 京都の思い出、漱石が
文芸芸妓に贈った一句
夏目漱石と京都は少なからず関わりがあります。
1907(明治40)年3月、
東京帝大の教授を辞職し、朝日新聞社に入社した漱石は、
作家第一作目として、
京都を舞台にした作品である 『虞美人草』 を発表した。
朝日新聞社に入社後、
明治40年4月に2度目の京都への旅へ出た漱石は、
「都をどり」を観て、
祇園の「一力」で遊興の時間を過ごしたという。
「漱石」というペンネームは、
正岡子規の多数持っていた
ペンネームの1つを譲り受けたと言われている。
1909(明治42)年に3度目の旅。
そして
1915(大正4)年3月の4度目の上洛では、
木屋町三条に宿をとり、1ヶ月程を過ごしたという。
漱石49歳の時だった。
京都では、ある女性との交遊があった!
その女性の名前は、「磯田多佳」。
お多佳女は当時、文芸芸妓と言われ、
生家でもある茶屋の女将で、
茶屋には当代の作家が出入りしていたようだ。
漱石は琴線に触れるものがあったのかどうか、
定かではないが、
【 春の川を 隔てて 男女哉 】
という一句をお多佳さんに贈っているのである。
川は鴨川。
鴨川を隔てて、川向こうのお多佳さんへの
春らしいメッセージであった。
◆ 白川のほとり、簾が下がる
お茶屋と巽橋周辺へ
お多佳さんのお茶屋は、
祇園白川のほとりにあった。
現在、その場所に枝垂桜が植わり、
歌人・吉井勇の歌碑があります。
「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を水の流るる」
と刻まれています。
毎年11月8日碑前で「かにかくに祭」という
お祭りが行われています。
この日は、舞妓さんたちが碑前に集まり、
菊の花を手向けます。
北白川から流れてくる白川は、
清らかな音をたてています。
漱石も
この場所に靴音を響かせたか?
お多佳さんの三昧の音でも聞いたか?
定かではない。
漱石がお多佳さんに贈った句は、
御池大橋西詰にある漱石の句碑に刻まれています。
1967年、
漱石生誕100年を記念して
建てられたものである。
鴨川の水音が耳に届く場所で、
2008年、
漱石の會有志によって、漱石の追善供養が行われた
漱石にとって、
5度目の京都への旅は無かった!
なぜか?
4度目の旅をした翌年、持病の胃潰瘍が悪化してしまい、
この世を去ってしまったからである。
平成の世の中になり、
漱石ブームと言われ、
その作品が愛読されています。
★夏目漱石とは・・・★
夏目 漱石は、
〔1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916(大正5)年12月9日〕
日本の小説家、評論家、英文学者。
本名:「金之助」。
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。
俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。
帝国大学(後の東京帝国大学、現:東京大学)英文科卒業後、
松山で愛媛県尋常中学校教師、
熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、
「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。
これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。
その後朝日新聞社に入社し、
「虞美人草」「三四郎」などを掲載。
当初は余裕派と呼ばれた。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。
「則天去私」の境地に達したといわれる。
晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
享年50(満49歳没)
-Wikipediaより-
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★ 龍虎 俊輔 ★
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