《 京都通になれる雑学知識 》
第 1 章
古都・京都の歴史を知る街歩き
- Kyoto 20 -
絹織物の「西陣」を歩けば、
今も機織りの音!
西陣の路地を歩くと、
地元の人が立ち話をしていたり、
お買物の子どもを見かけたり、
今でも普段着の生活が見られます。
路地に聞こえる機織りの音は、
西陣らしい音風景である。
■ 応仁の大乱に由来する
「西陣」という地名
西陣と呼ばれるエリアは、広範囲である。
東西の範囲は、烏丸通から西大路通。
南北の範囲は、丸太町通から北大路通。
東西に延びる今出川通を境にして、
北側を「北界隈」と呼び、南側を「南界隈」と呼び、
分けることがある。
路地を歩きながら耳を澄ますと、
なんと!
軒の低い格子造りの町家から、
機織りのガッチャン、ガッチャンという音が
聞こえてくるんです。
現在では・・・
西陣と聞けば、
「着物作りはるの?」
とか
「ええ帯やなぁ」
とか
穏やかに話が弾むのだが、
かつて西陣と言えば
十数年に及ぶ戦乱の中心であった。
1467(応仁元)年に火ぶたを切った応仁の大乱は、
足利将軍家、管領を巻き込み、
市中は火の渦となった。
その時、
現在の堀川通より東側に「東陣」を置いたのが、
細川勝元である。
そして西側に「西陣」を置いたのが、
山名宗全である。
■ 東陣、西陣それぞれの武将が
残した古刹と山城
東西両陣営の戦いは、
熾烈を極めた。
しかし
山名宗全の「西陣」は地名として残り、
細川勝元の「東陣」は地名としては残らず、
残念ながら消えてしまった。
堀川今出川の交差点から北へ、
左手に見えてくる京都シティホテルの先の路地を西入ると、
山名宗全の邸宅跡の碑があります。
この周辺は「山名町」と言い、
この辺りに、
「西陣」があったのではと推測されています。
山名、細川の戦いは勝敗を決することなく、
山名宗全は1473(文明5)年3月18日に病死した。
享年70であった。
一方、細川勝元も宗全の後を追うように、
同じ年の5月11日に病死した。
享年44だった。
細川勝元は、
石庭で有名な龍安寺を創建した人物で、
鯉の産地を言い当てる程の恋好きだったという。
また
山名宗全は、
現在の兵庫県朝来市に、竹田城を築城しています。
この城は今、
「天空の城」とか「日本のマチュピチュ」などと
もてはやされ、
秋から冬に朝霧が棚引く様子が、
実にロマンチックだ。
■ 西陣織の美しさに触れられる
スポット
西陣織は江戸時代、元禄期に繚乱期を迎えた。
1730年の享保の大火、1788年の天明の大火と
二度の大火をくぐり抜け、
技術革新を積み重ねて発展したという。
堀川今出川から南へ、
機織り作業の実演と絢爛の西陣織が見られる
「西陣織会館」も訪れてみたいものです。
この西陣織会館では、
食事も出来ます。
★最後に・・・・西陣とは・・・★
西陣とは
京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。
上京区内の東の堀川通から西の七本松通、
北の鞍馬口通から南の中立売通あたり迄の範囲の中を指すが、
住所としては存在せず、
どこからどこまでかは正確に定められているわけではない。
一般に西陣織など織物産業が集中する地域である。
また、
日本で初めて映画館ができた場所である。
上記の織物産業は、
鎌倉時代前半に綾織りの織り手が
すでに集住していたことが知られている。
「西陣」の名は
応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が
堀川よりも西に陣をおいたとされたことが由来である。
今出川通の大宮通と堀川通の間に西陣の史跡がある。
和装産業は京都を代表する産業であり、
西陣はその中心地として繁栄したが、
和装離れにより活気がやや失われている。
西陣の町屋は西陣織の工場を兼ねていたものも多く、
あちこちから西陣織の機織りの音が聞こえていた。
しかし、最近は町屋も減少し、
近代的な建物に代わってきている。
-Wikipediaより-
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★ 龍虎 俊輔 ★
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